「ヘルプは、今の自己満足。サポートは、将来への責任を視野に捉えた知識の提供」「高嶺の花を羨むより、足元の豆を拾え」

◇心ざわざわ Top

足元の豆には、可能性が溢れています
親御様は、お子様にどう対応したらいいのか?と、ご相談にお越しになります。当然のことです。辛い気持としんどい体を抱えて、どうしようもなく困ってらっしゃいます。
ただ、早く何とかしたいと焦り、視野が飛び過ぎるのですね。まずご自分がどう感じるか、どういう守りの動きを、ご自身がするかを知ることから始めていただきたく思います。知るは、分かるではなく、感情が入らず に、ただ知るだけです。お子様と接して、色々な場面を経験しながら、自分の感情は?自分の行動は?と自分を知る。それを飛ばして、良い方法を教えてほしいと、真似をするだけでは、ご自身が納得せずに、無理が生じます。それらを無意識 に抑え込んでいるので、ご自身がご自身に不満を抱くのですね。これは、摂食障害を抱えていらっしゃるご本人さんにも言えると思います。
知っているからこそ、傾聴もでき、放置もでき、堂々と生きることができます。大人は、わざと子供に負けてあげる。大人だからできること。知っているからこそ、知らないふりもできる。知らない人は、その知らないことを隠そうとするから、プライドと負けん気で、気遣いではなく気疲れをするのですね。
自分って面白生き物です。興味があると、知りたくなります。知識をもらい、それはどういうことかな?と考える。ここで留まる方は、言葉を知ろうとするので、難しいのです。すっーと抜ける方は、ご自身を知ろうとするので、次に進まれます。ご自身に視線を向けるのです。
ざわざわの看護に対する考え方「残存機能を活かし、自分でできることを知り、できないことを知り、できることを増やしていく工夫をする」。これがざわざわの「ヘルプはしません。サポートは喜んで贈ります」に繋がっています。右手が使えない方に、左手で自分ができることを、知ってもらい、自分でできることを増やしていくのですね。できることを知るには、できないことも知る必要があります。ここで感情が入ると、諦めや焦りが生じます。過度のヘルプは、残存機能を活かす場を取り上げていることになります。左手が使えないという現実を認めて受け入れるのは、頭では無理だと思います。感情では難しいと思います。まず「知ること」。体で知ることなのですよね。感情を抱いていいのです。思考も働いていいのです。
ヘルプは、今の自己満足。サポートは、将来への責任を視野に捉えた知識の提供。サポートをするという知識を贈りますので、それを知恵にするのは、自分自身の行動なのですね。出来ないことは出来ないのです。出来るように工夫するには、知識が必要です。
何事も、最初は、真似をするから始まりますが、知らないことを知るのが真似であり、そこへ工夫を入れると、自分のものになります。結果を真似するのではなく、経過の工夫を、自分で知っていくことが必要ですね。充実感や満足感というのは、結果ではなく、経過に生じる自己の感情なのです。気づくのは、後で冷酒のようにじわじわなのですね。
だからこそ、どんな感情も抱いていいのですよ。抱くと知るのですよ。知るから、放置が出来るのですよ。無視をするのではなく、抑えるのではなく、感情を放置することが出来るのです。まず知ること。感情はたっぷり抱いてくださいね。

人は、無意識に抑え込んでいる部分=自分の不足している部分を他者に投影させて、それを責めるという防衛反応をします。無意識に気になるのですが、なぜ?と考える方は、気づくものがあふれてきます。ご自分の気持ちを抑え込んでいる方は、自分が自分の傍にいなかったのですね。
自分が自分に、いつも怒っていましたね。お辛い気持ちを一人で抱えて、ここまで頑張ってこられたのですもの。ご自分と、堂々と仲良くしてくださいね。お母さんの責任の一つに、ご自身が心身ともに、健康であること、それに近い状態を保つことがありますよ。

母親だから、子供を守るべきだ、親だから、私が何とか治してあげる。初期は、当然この気持ちを抱いていいのです。これがないと逆に、母性を見つめ直す機会でもあるでしょう。お子様と 一緒に揺れて、悩んで苦しんで、本当に大変な時期なのです。それがあるからこそ次に繋がるとも言えます。ここで大事なのは、ご主人、お友達や親せきなど、本音が言える存在があるかどう か、母親を支えてくれる余裕のある方がいらっしゃるかどうかと、家族会の存在です。
次の段階に入る前に「ヘルプは、今の自己満足。サポートは、将来への責任を視野に捉えた知識の提供」を知っていただければ、長引くことを避けられると考えます。
お子様の気持ちに、ぬるま湯から、自分で抜け出す力を残しておいてあげるのが、本当の親の愛情であり、コツコツと躾けるのが、本当の責任だと考えます。どういう形であれ、社会生活に適応できる生き方を、コツコツとじわじわと教えていくことが非常に大事だと考えます。その力を子供さんは、お持ちですもの。 摂食障害の渦中の時の一番の願い、そして克服して今の一番の願いは、変わっていないことに、私は気づきました。母が母の納得できる健康を心身ともに保っていてほしい。言葉では伝えなくても、心で思うだけで伝わっているはず。それが母と娘の関係だと感じます。

日刊メルマガより抜粋
「君子は一人で居る時に、自ら慎み律する。小人は他人が居ない所では、手を抜く」。見せるためにするのではなく、褒められるためにするのではなく、自分のために、自分がするのですね。それが日々のコツコツなんですよ。
「若い時って、自分の世界って狭かったな」。コツコツを重ねると、広がっていきましたよ。自分の視野が、縦にも横にも前にも伸びていきました。今日も「足元の豆をコツコツ拾う」。そして、自分の中で、自分に一歩引く。充実感や満足感は、自分で動くから、掴めます。体が知るものなんですよね。
「知る」は、積み重ねですね。ほら、積木は一つずつ重ねて載せていきますね。両手に両腕に、こぼれそうなくらい抱えていては、一つずつ手にとって、丁寧に重ねていくことができませんね。
誰もが抱えて、誰もが乗り越えていくモヤモヤ道。思春期のモヤモヤ道。岡本も色々なモヤモヤを抱えて、歩いてきましたよ。今も歩き続けています。今はコツコツという言葉に換えて歩いています。
完ぺき主義とは、一つのことを丁寧にきちんと最後までできることを言いますね。100 個のことを完ぺきにしようと思うとは、まったく異なりますよ。一つでもできないから、すべてしなくなるのは、面倒くさがりなんですよね。日々、思うどおりに進まないことや予想しなかったことが起きますね。それがあるからこそ、生きているのですね。何かが起こるから、揺れて、動いて、知っていくのですね。
現実を知っているから、理想を描くことができる。現実を受け入れているから、妄想で楽しめる。頭を休ませてあげることが、不器用な自分を知る。いつも頭の中が忙しいと、頭が固くなってしまいますね。柔らかくする岡本の秘法は、とことん何かを妄想してみること。そして、大好きなジグソーパズルに取り組むことなんですよ。理想と現実の違いを知っている人は、動こうと努力します。理想と現実の違いが、はっきりしていて、現実に足をとりあえず着けている人は、妄想を楽しめる余裕があるのですよ。現実はしんどい。大人になると、逃げ場を他に探さないと、やってられない。現実逃避の方法や依存するものを他に探し、見つかると大人とも言えますね。 迷いは欲望の執着から生まれるといわれます。あれもこれもと忙しい。思い出してくださいね。
「こっちもいいな、でもこれもいいな」と悩むことがありますね。関心がない場合は、悩みませんね。どちらにも執着していないからですね。選択は、シンプルに、自分自身の「これいいな」って、直観を信じる。そして、選択した責任を堂々と背負う。これが自信なのですよ。
ある日「自分のプライドを守ることが大事なのか?それとも自分の日常の生活を守ることが大事なのか?」と鏡を見て問いかけたことがありました。20 年前は、「プライド」でした。10 年前は「日常の生活」でした。5 年前は・・・それとこれを比較する考えもありませんでした。比較できないものを比較するのは、どちらにも失礼なことだと、若い頃は気付かなかったのです。
自分が、本当に「ムッ」とするのは、一つか二つ。傷つくとも言えますが、自分が自分で触れずに「そっ」としておきたい部分ですね。意外にもそれらに気づいていない方が多いのですね。自分を知る。「ムッ」とした時が、自分が何に拘っているのかを知るチャンスですよ。
壁にぶつかった時、人は自分に気付きます。「私は、今これをしています」と言葉に出すと、自分の耳に入ってきますね。自分の行動に気付きます。教わることも大事ですが、自分が自分に教え てくれることも、とっても大切ですね。
「固定観念の枠は柔らかく」思い込みの思考は、大損ですよ。メールを読む時は、思考と感情を真っ白にしてくださいね。丁寧に行動するのも同じですよ。丁寧に動くには、よく観ることから ですね。当たり前は、何もないのですよ。何かを誰かを「愛する」というのも、余裕が必要なのですよね。余分を流すと余裕が生まれました。

過去の思考が、今の行動の操作をしているのですよ。魔法使いではありませんので、目の前のコップは、自分の手を差し出して、その手に取ってくださいね。丁寧に意識して動くことで、視野 が新鮮になり、ぐんぐん広がりますよ。「当たり前のように、そこにあるものに、目を向けるなんてしたことがなかった」。思い込みに捉われる自分の行動を、自分が感情という形で操作していますね。不安は、知らないから、湧いてくるものであり、頭で作り出すもの。知ると、体で掴むので、現実の悩みになり、工夫という行動へ繋がります。「イメージとは違った」「思っていた通りの人だった」。よくありますね。自分の今は、誰の今でもなく、自分自身の今なのです。
居心地の悪さは、人生の教科書ですね。心地よさを知っている方は、居心地の悪さにどっぷり浸って知っているからですね。知ると、悩みます。悩むと考えます。工夫が生まれます。自分で動き始めますよ。まず知ることですよ。

結果より経過を見る癖をつけよう。その前に、結果に自分の思考や視線が先走っていることを知ってみましょうよ。コツコツは、毎日5 分だけで十分ですよ。
「しんどい」。どこの声かな?体?心?頭?体のしんどさは現実。心のしんどさは無意識の逃げ。 頭のしんどさは妄想。「私は、今、何がしんどいのだろうか?」と訊ねてみましょうよ。自分自身にね。季節の変わり目、お疲れもありますでしょう。体の声を素直に訊いてあげましょう。疲れたら休む。何もしない時間があっていいのよ。
皆さんが、今、一番悩んでらっしゃるのは「学びの不足」であると、私は考えています。若い頃の私が、まさしくこれでした。経験の不足とも言えますが、知識は他人の考えであり、それに振り回される自分の幼い感情が、許せない時期もありました。大きな引き出しに、あれもこれもと突っ込んで、必要な時に、何を使ったら良いのかがわからない状態になっていませんか?容量オーバーにも気付かずに、重たくなると、引き出しを閉めてしまいますね。頑固と呼ばれる性格は、引き出しが重たくて開けたくないからでしょう。
思い込みで文章を読む方が、かなり多くいらっしゃいますね。丁寧に、文字を読む。意識して、文章を読む。出来ない自分を知り、現実のちっぽけな自分を知り、自分のレベルを知り、大きな引き出しをやめて、小さな引き出しをたくさん作りました。「私の今には、これが相応だな」。そして、丁寧に文章を読むことを始めました。すると、益々、自分の知らないことが多いのを知りました。井の中の蛙大海を知らずの蛙だったなと思います。今は、蛙は蛙なりの大海を目指して、コツコツです。コツコツとは、「学びの充足」を体で知恵にしているのです。知らないことを知ると、知っていることを知るのです。

自分が動くと景色が変わります。
ゆっくりと動くと、色が鮮やかになります。のんびり行くと4時間で着く、急ぐと一日かかるよという言葉が聴こえてきました。途中の景色に素敵なお土産があるのですね。経過を楽しめる人は、今を知っています。そして充足を知っています。今日も一緒にコツコツと知っていきましょう。一つずつです。ガツガツすると、疲れますので、一つだけを、知っていきましょう。何が要らないか?そして何が必要か?
「意識して丁寧に行動していると、とても体が疲れます。でも気づきました。頭は疲れていないんです。体が疲れていることを知ると、何故か食べ物に執着しないで、自然な眠りにつく日が増えてきました。自分の体を労わることに、丁寧に動いている自分がいるのだと知りました。摂食障害が心を守ってくれているのだから、体は自分で守ろうと思います」

私が、摂食障害を10 年以上抱えていたのは、知ることから逃げていたからでした。知ることをしたその日に症状を手放しました。現実を知ったのです。頭ではわかっているのは、ぜんぜんわかっていないということを知りました。そして、摂食障害が、自分を守ってくれた転ばぬ先の杖だったことと、自分は井の中の蛙大海知らずだったことを、克服して痛感しました。摂食障害を抱えているから、何もできないというのは、言い訳でした。何かあるから、摂食障害で自分を守っているんだということを知りました。

皆様、それぞれの回復過程を歩まれており、皆様、それぞれの歩みは異なりますが、共通する部分もあります。回復過程の道筋は異なりますが、どの方にも共通するだろうと私が考えていることは、皆様、本人様も親御様も関係者の方々も、それぞれが一人の人間であるということです。 それぞれが一人の人間として、自分という責任を背負って、自分の人生を「いわゆる大人に成長する」ことが、この摂食障害の回復克服とも言えると思っております。サポートは、贈る側も成長するのだと、改めて知った自分にうれしく思いました。
今の自分。それでいいんですよね。それを知ること。まずは、それが第一歩ですね。変えよう、変わろうと、焦らないでいいんですよ。今のままでいいんですよ。今を知ることからですね。人って、いろいろな感情があって、いろいろな自分がいて、それらを大きくひっくるめて私。これも私、あれも私、大きく捉えて一人の人間、いろいろある自分が、それぞれ点。点が繋がると線になり、線が合わさって、面になっていくという感覚ですね。私は、渦中の時は、それぞれが孤立した点だったんですね。一点一点が、バラバラの点で、どれもこれも、私ではなかったんですね。

何が問題なのか?誰の問題なのか?知ると反省になります。
トラブルが生じた時に、そのトラブルを「知る」。責任の所在は、どこに、誰にを知ることで、次の行動が見えてきますよ。叱る、怒る、教える。違いを知ってくださいね。摂食障害に怒るのではなく、一人の人間として、躾をするのは、周囲の大人の役目ですね。

人間関係は、実はとても単純なのですね。それを複雑にしているのは、それぞれ自身の感情の先走りだと思います。自分の感情は、どーんと抱いて、たっぷり浸る。ここをしないから、先に走っていくのですよ。知るというのは、その後に続くものですね。知るとは、感情は入りません。 ただ単純に知るだけです。分かる、理解するへ繋がるのは、まず知ることですね。そして、やっと受け入れる、認めることが出来るのです。足元の豆を見ずに、空の色ばかりを観ていても、手探り状態の体は、何も掴めないですね。喜怒哀楽。どの感情も抱いていいんですよ。自分を守ろうと踏ん張るから、見て見ぬふりをして、感情を無視するのですね。怒りがわいてくる自分を知ることですよ。その怒りをあるがままに知ることですよ。喜びがわいてくる自分を知ることですよ。その喜びをあるがままに知ることですよ。その時に他人の感情を勝手に読まないこと、失礼ですものね。他人の視線で、自分の感情を観ないこと、自分に失礼ですよね。確かに、渦中の時の岡本も複雑でごちゃごちゃしていましたが、今は、実に単純になりました。
「高嶺の花を羨むより、足元の豆を拾え」です。
自分自身に失礼のない生き方を選択しました。苦悩して、しんどい日々を、自分自身と歩く道のりを選択しました。今、コツコツと生きています。自分で。自分が。 回復過程の途中のある日。自分も他人も、誤魔化すことができないと知りました。10 個の引き出しに宝物が溢れている顔をして、何でもできる人を演じていました。自分に嘘をついていました。 10 個の引き出しを開ける知恵がなかったのでした。引き出しを開けたことがなかったのです。頭を下げて、1 個の引き出しを開ける方法を教えていただき、1 個だけ引き出しを、自分で開けてみました。引き出しは引いて開けることを初めて知りました。自分の引き出しに入っていたのは、小さな輝く自分が一つでした。1 個の自分を、10 個に見せかけて、自分にも他人にも嘘をついていた自分を知りました。その日から、1 個の自分でコツコツ始めました。厳しい現実を知りながら。大海を探す前に、今いる井の中を見始めました。辛い現実を、一つ。苦しい現実を、一つ。 同時に、充実を一つ。同時に、満足を一つ。やがて、本当の宝物は、自分が持っているのだと知り、それを自分で磨くので、輝くのだと体得しました。要らないものは捨てました。現実に必要なものを、拾い直しました。意外に少なくて驚きました。思い込み、他人への負けん気、他人からの称賛を欲する気持ち、ピノキオのような鼻が入った「比較」という箱は、私には要らなくなりました。今、赤い鞄に入っているものは、「自分だけが自分なのだ」という気持ち、「そのままで、しばらく放置しておく」という気持ち、そして「あなたを愛する」という気持ちだけです。 嫌な感情や恥ずかしい感情も含めて、表出できる環境があれば、感情が豊かに育つと言われます。
感情放置ができるのが、大人ですね。豊かな感情があると、選択して放置ができるのですね。
「ダメ」では納得しない。子育ての中「ダメよ」という教え方では、その子供なりの持論のプライドが傷つきます。5 歳児前後では、現在という感覚がわかってくるので、変化を知り始めます。 同時に、人と比べるという言葉がみられます。今、自分を見つめながら、自分を育てる経過を歩んでらっしゃる方は、「〜しなければダメ」という思いが、自分のプライドを傷つけているかもしれません。変化を不安に思う気持ちと何かや誰かと比較する気持ちで、自分と接していると、自分が納得しないままで、自分が自分との信頼関係を築くのには無理が生じますね。それらと並行して、自分の体を置き去りにしている食行動や負荷が大きなエネルギーの消耗行動では、納得できない上に不満が募ってきます。現在という感覚がわかってくる時期に、自分を切り開いていく行動が多くなり、体で経験を重ねて、成長していくのです。そして、納得するという言葉には、「こんなもんかな?」というグレーの感覚も育っていくと思います。客観視や一歩引くという感覚ですね。回復とは、大人になることなのです。大人とは、諦めではなく、納得が増えることであり、好い加減を知ることなのですね。そう固定観念の枠が柔らかいってことですね。焦らず、諦めず。コツコツと。まず自分で知ること、気づくこと、それを行動すること。大事なことは、転ぶことなんですよね。たくさんたくさん転び、痛くて辛くて泣く。そして、いろいろなことを体得し、体で掴んでいくのですね。
日々波があって当然。当然は意識することで、感謝になり、感謝は自分を穏やかにしてくれますね。そして、充実につながると思います。意識した日々は、満足充実を呼んでくれる。後になってわかることもある。一気に全部ではなくて、一つをゆっくり、じっくり。一つだけでいいので、じっくり取り組むこと。答えは明日でいい。出ないかもしれないけれど、それでいい。すっきりしないのが人生。すべてを抱えて、ぼちぼちと歩くのが人生。

克服とは?
空想の世界から、現実の地に、舞い降りて、羽ではなく、自分の足で立っているという感覚です。いつも頭の中に靄がかかっていて、視線の先に映るものは、思考というより妄想の世界の中の物体という感覚がありました。地に足が着いていないというか、自分だけが透明の風船の中に入って、ふわふわと浮いている感覚がありました。耳から入ってくる音も、ぼわんとしたエコーがかかったもので、言葉の裏が聴こえている感覚でした。妄想に近い理想を相手に反映して、相手の視線を乗っ取って自分を映して、自分の都合のいいように、もしくは悲劇のヒロインであるようにして、自分を外から観察している感覚がありました。
自分に向かう称賛は、自分のものであり、都合の悪いものは、誰かのせいであり、シンデレラ気分に近い、きっと素晴らしく有名な人物になるのだという頭の中のシナリオが完成していました。一日のほとんどが空想に浸っており、必ずすごいことが起きるのだという思考が大半の思考であり、時々目の前にやってくる現実は、他人事のように視線に捉え、誰のこと?という感覚がありました。その中で、美意識は非常に高く、それ以上に、努力せずに出来る人間である、しかし、護ってあげたいと周囲に思われる存在でいようと常に考えていました。自分は歳を取らない、いつまでもこのままで、当然、親はずーっと生きているという気持ちがありました。職業柄、「死」に対して、身近過ぎて、現実として捉えていませんでしたね。
都合のいいように、体調不良を起こし、嫌なことがあると、自分の傲慢なプライドが傷つき、怒りと憎しみの感覚が急速に湧いてきました。そのまま放置が出来ないので、取り繕うとテンションが上がったり、逆に精神的に落ちるところまで落として、死にたいとの言葉で、同情をひいていました。浮いた感覚が続き、一人では寂しくて仕方なく、誰かを求め続けていながらも、親密になることを極端に恐れて、自分は皆とは異なる人間であり、レベルが違うからと、人を避けるように過ごすこともありました。
変化が怖く、特に人の心の変化に敏感であり、一度もらった良い評価を下げたくなく、あたかも気配り上手の頭のいい人を演じながら、嫌われないように、自分を守りに守ってきました。今だから、知ったことばかりですが、現実をまったく見ていなかった自分が、妄想の中で飛んでいる感覚なのです。自分の妄想が、自分の感情や行動を支配している感覚でしたね。いつも誰かが何とかしてくれるという気持ちがありましたので、切羽詰まった現実を見ようとしませんでした。常にだれかを、自分の都合のいい方向に、操作していました。触れ合うという感覚は、心ではなく、「物」のやり取りであり、借りを作りたくないので、プレゼントを押しつけがましくすることが多かったですね。特別な人間だから、宇宙にも行くことができるんだという気持ちがありましたね。何も感じないように、都合の良い想像を膨らませて、空回りをし続けていました。現実の厳しさと体の重さが、自分が自分なんだと教えてくれました。自分だけが自分なんだと知りました。離れ離れに点在し続けた、「点の自分」が、がっちりと手をつなぎ、「線となり、面となり、自分の形」が出来ました。

残存機能を活かす看護のやり方
看護師として、たくさんの経験を積みながら、それに対する考え方に「残存機能を活かし、自分でできることを知り、できないことを知り、できることを増やしていく工夫をする」があります。これがざわざわの「ヘルプはしません。サポートは喜んで贈ります」に繋がっています。右手が使えない方に、左手で自分ができることを、知ってもらい、自分でできることを増やしていくのですね。できることを知るには、できないことも知る必要があります。ここで感情が入ると、諦めや焦りが生じます。過度のヘルプは、残存機能を活かす場を取り上げていることになります。左手が使えないという現実を認めて受け入れるのは、頭では無理だと思います。感情では難しいと思います。まず「知ること」。体で知ることなのですよね。感情を抱いていいのです。思考も働いていいのです。それらに振り回されない行動ができるかどうかなのですね。これらをベースに、今、メール療法を行っています。「知る」ということから始めています。

現実を知っていく
なぜ、その必要があるのか?自分の幼少期から克服ラインまでを冷静に見ると、基本は現実を知るということに躓いているのがわかってきました。あるがままと同時進行で、あるべきようも取り入れていく必要性を感じました。大人になるという抽象表現ですが、責任という言葉が怖くてたまらなかったのです。 克服ラインを超えると、現実をくっきり捉えることができるようになり、逃げたい自分やどうしようもないもやもやした気持ちを、どっしりと抱き始めました。怖くてたまりませんでした。今まで見て見ぬふりをしていたものが、どんどん目の前に現れるのです。これが現実なのかと立ちすくみました。現実には、責任という自分で背負うものが付いてきました。自分が今まで逃げてきたのは、これだったんだなと掴んできました。自分の足が、確かに地に着き、頭の中の靄が晴れ、視界を包み込んでいたベールが取れました。自分だけが自分なんだと確信を得て、人生ってこういうものなのかと体得したのでした。

親の意見と冷酒は後で効く
情報は他人の知識です。そのままを取り入れても、できないものはできないのです。その知識を知恵にするのは、自分の体を動かすことなのですね。気づきは後からやってきます。自分の中に自分の答えはあるのですよ。岡本の言葉は、後でじわじわと効いてきます。今は?でいいのです。日常の生活の中で、納得する答えが、グレー色に染まって見つかります。
自分で知ることが大事なのですよ。その知る過程があるからこそ、自分が納得して、自分の知恵になるのです。真似ではなく、自分で掴む経過が必要なのですよ。
NPO法人心ざわざわ 岡本理香


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