世界遺産 The world heritage  稲作民俗の源流

釈尊の聖地を巡礼  仏陀遺跡     

仏跡巡礼四大聖地          __ 小泉芳孝 __                  
       
インドと言えば釈尊の国で、仏教が誕生した所である。
しかし、その仏教遺跡がインドのどこにも見られるとはかぎらない。
ほとんどはヒンズー教の女神やシバ神そのもののリンガがほとんどである。

     

釈尊(ブッダ)がたどった仏跡巡礼地は、「四大聖地」としてルンビニ(生誕地)・ブッダガヤ
(成道の地)・サールナート(初転法輪の地)・クシーナガラ(涅槃の地)がある。
また、これにラージギル(王舎城の竹林精舎)・ヴァイシャリー(広厳城)・シュラーバスティー
(舎衛城の祇園精舎)・サンカーシャを加えた「八大仏跡地」がある。
私は,このおもな仏跡地をこのほど一人で巡ってきた。以下は、その記録である。
お釈迦さんが生まれた「ルンビニ園」は、現在チベットになっていてマーヤ堂の中に、
右手を天井に上げ、左手を天下に挿した「太子の像」が保存されている。

お釈迦さんが生まれたルンビニ園の「太子の像

 お釈迦様の右手は顔の高さまで掲げられ、親指と人差し指で丸いわっぱを作っています。
これは「お釈迦様が苦しみの淵や悩みの淵に落ち込んでいる私達を救い出してくれる」ということを
表しています。つまり、お釈迦様は、右手の親指と人差し指を使って、苦しんでいる人間、悩んでいる
人間を救ってくださるのです。


祇園精舎跡

祇園精舎跡は、現在レンガ積みの遺跡があるだけで建物などは何も残っておらず、
日本人が建てた「祇園精舎の鐘」があり、また関西大学の網干教授が発掘した沐浴場
井戸が発掘されている。
このほか、中国寺院の一角に瞑想場として「三味堂」が設置されている。

祇園精舎の鐘(日本人が寄進)


ナーランダ大学跡は、紀元前から仏教研究の場所として栄えたところであるが、
12世紀にイスラム軍団により廃墟となった。
ここは密教が盛んな所で降三世明王や不動明王などの像が保存されている。

ナーランダ大学跡


ブッダガヤ

ブッダガヤは、大変交通の不便な場所にあり、日本から2日かかる。
ここは、インドの中で一番仏教そのものが残っている場所である。
ここには、日本妙法寺や大きな大仏があり、また日本語が通じる所でもある。
大菩提寺本堂の裏には、釈尊降魔成道の「金剛宝座」がある。
この金剛宝座横には,紀元前一世紀の仏足石があり、また金剛菩提樹の
大木が繁っている。
現在これらの建物が残っているのは,イスラム軍団がこの地を滅ぼす前に、
土を盛って小高い丘として埋めたため残った。
その後、最近になって発掘されたもので、当時の人達の仏教に対する思いが、
これら仏教遺跡を見るとき私の心に伝わって来る。

ブッダガヤの大塔前にて

上記の写真は、ブッダガヤ大菩提寺(マハボーディ寺院)本堂の裏にある
金剛宝座」である。
 ここは現在近ずけないように柵が取り付けられてしまった。
オーム真理教の麻原氏が許可なく仏陀の修行した場所に座ったから?の
ようです。
 上記の写真は、現地の修行僧の許可をえて取らせて頂いた。また、
マハボーディ寺院では、修行僧と一緒に数時間にわたり修行させて頂いた。
この地は、インド唯一の本当の生きた仏教が見られる場所である。
 インドで仏教を見るためには、ここにこないと見られません。しかし、ここまで
たどり着くには相当の覚悟がないと来る事ができません。その理由は、
ここに来て初めて解かることです。言葉では表現できません・・・

ブッダの仏足石(拓本)

ブッダガヤ・大塔前の夕景

仏陀とは仏教とは・・・

仏教は、インドにおいて宗教としての生命力を現在失いつつある。この仏陀発祥の地
インドでは、既にヒンズー教とイスラム教に呑み込まれてしまった。
 現地の人に尋ねると仏教は、ヒンズー教の中にあるという。つまりインドの仏教は、
日本の密教の中に見られるのである。ではヒンズー教の何処に仏教があるのかである。
インド滞在中ずっと考えていたが、すっきりしない。
 日本の密教である東寺や大覚寺などには、五大明王像がいてこの像がどうやら
ヒンズー教のシバ神などの女神と同じようであることがわかってきた。
 中国においては、シルクロードの敦煌壁画を見ていると、まさに日本の仏教が見えてくる。
宇治の平等院の天女や仏像、東大寺の大仏など日本の仏教がここにある。
 ネパールにおいては、ネパール仏教があるが、日本の佛教と少し違う。しかし、
純粋の仏教であっても、観音さんがいてヒンズー教の女神もいるという不思議な仏教である。
また、チベット仏教寺院も沢山在り、ここは、日本の仏教とは、まるでちがう。まさに
チベット仏教そのものである。時間があれば、僧院へ上がらせてもらって見学すればよい。
日本人なら気軽にいれてくれる。ここには、チベットから沢山の人々が来ていて人々の厚い
信仰心をかいま見ることができる。

ブッダガヤのホテル売店にて(数珠専門店)

ブッダがスジャータ村の娘から乳粥の供養をうけた場所は,ブッダガヤ近くにあり、
そこにはその姿を描いた像が地元の人達により保存されている。

ブッダが乳粥の供養をうけたスジャータ村

 上記の場所を探すのに2日かかってしまい大変苦労しました。観光客はここまで
こないようなので、現地の人はここを知りませんでした。
 暑い炎天下の中、私は、ふらふらしながら歩き迷いに迷ったあげく近くで農作
業をしている人に尋ねながらたどり着きました。ブッダがこの場所で現地の女性に
乳粥の供養をうけた状況が、ここに来てようやくわかりました。
 ここまでくる人はさすがに珍しいのか、周囲の犬゛にわめき立てられ噛まれそうに
なりました。しかし、この犬の泣き声で管理している人が遠くから駆つけてくれたので
助かりました。そして、スジャータ村でブッダが乳粥をほどこしてもらった場所を尋ねると、
扉のカギを取りに戻ってくださいました。

ブッダガヤの大仏


バナーラシー

バナーラシーは、ガンジス川の沐浴場で有名ですが、ここはヒンズー教の聖地で、
仏教そのもは見られない。
特に火葬が行われているマニカルニカ・ガード付近は、何故か殺気立っていて、
我々日本人が近ずくには大変危険な場所である。けっして一人で行かないほう
がよい。必ずグループで見学するか、船に乗って観光した方が良いようです。
 このバナーラシーは、最近色々トラブルが発生しているようで、路上には,銃を
かまえた警察官が多数待機している。また大通りには、リキシャや三輪オートバイ
が行きかい、ガンジス川沿いの沐浴場やガートには、チップを目的の臨時のガイド
が次々に声をかけて来るのでゆっくりと見学することが出来ない。また、周辺の
細い路地は、くねっているので道に迷ってしまう。私も道に迷ってしまい足が動か
なくなったので小さなヒンズー教の寺院の影で休憩して休んだあと、リク車のお世
話になって元いた所まで送ってもらった。彼らは、英語は通じないし、地図を広げて
ここへ云ってくれと地図を指さしても見方が解からないのか、大変手間取った。

バナーラシーの沐浴(ガンジス川)

ヴナーラシーは、ガンジス川(ガンガー)の左岸に広がるヒンズー教最高の聖地デス。
この聖なるガンジス川の水を浴びようと、連日インド各地から大勢の老若男女の
巡礼者たちが集まってきます。
 私は、ブッダガヤからこの町に着いた午後、早速リキ車に乗ってガンジス川の岸辺に
あるヴナーラシーへやってきた。
すると数人の少年が近づいてきて「ボート・ボート、案内・案内?」言葉がわからない
のでどうやら「ボート」の呼び込みのようだったので「ノーノー」と手を振ったが後ろに
ついてきた。彼らの狙いは、案内のチップを要求する(仲介料)で生活をしているので
あった。断り続けてもひつこくつきまとう彼らを無視して歩くが「ボート・ボート」と実に
うるさい。私の「トゥモローモーニング・ボート」であきらめたのか立ち去った。しかし、
また次に13歳ぐらいの少年がやってきた。
ゆっくり見学出来なかったので「うるさい」と日本語でさけぶとバツの悪そうな笑みを
浮かべて立ち去った。
 この町は、我々日本人には理解出来ない殺気だった何か不思議な存在感のある
不気味な街である。
 私は、ブッダガヤを朝早く薄暗い内に出発して車で約9時間程かけヴナーラシーに
やってきた。途中には、バスとトラックの運転手が道路のど真中に車を止めて大喧嘩
していて1時間ほど車が全然動かなかったり、長い川のど真中で大型トラックの車軸が
折れて道路をふさぎ完全麻痺して動かなかったりしていた。しかし、乗用車だけは、
隙間を利用して左右に曲がりながらも少しずつ通過できていたので助かった。バスだっ
たら何時ヴナーラシーに到着できたかわからない。荷物を満載し車軸が折れて斜めに
傾いた大型トラックの運転手は、橋の上でただ頭を抱えてうずくまっているのみで、周り
の大型バスやマイクロバスそれに大型トラックの運転手も2キロにも及ぶ橋上では手の
うちようがないといつた表情であった。
 ヴナーラシーに着いたた後、早速猛暑のなか沐浴場とマニカルニカ・ガード付近などを
回り周辺を見学した後、ヒンドゥー教寺院の入り口に不思議なリンガを見つけ写真を撮っ
ていると、年配の信者が近づいてきた。しばらく私は、その人を無視していたが、その内
私が薄暗いヒンドゥー教寺院の中を覗いると「中に案内しょう?」とヒンドうー語で何か
手招きをして誘われた。
 インドでは、ヒンドゥー教の信者以外は寺院の中に入れないことを知っていたので、
まさか入れるとは思っていなかったのでちゅうちょしたが「これはチャンス!」だと判断して
勇気を出して「カメラはOKか?」といつもしているジェスチャーで聞いてみた。そうしたら
手で駄目駄目と言ったので写真は撮らずに中に入っていった。寺院の中は、薄暗くてし
ばらくしないと中の様子が見えてこず、数人の信者が横たわっていて何か異様で不気味
な雰囲気で身震いするような雰囲気であった。
奥の少し明るい所には、ヒンドゥー教の神々があってその像の前にローソクや油の灯明が
灯っていた。私には理解の出来ない空間であり何か死臭が漂っていたような場所だつた
ので、たぶん「あの世に旅立つ直前の人達が過ごしていた所だった」のではと思われる。
 ホテルへ帰るリク車から眺めたヴナーラシーの街は、生と死が入り混じったヒンズー教
独特の複雑な表情を見せていた。

 ガンガーのほとりにあるガート(沐浴場)は、ヴナーラシーに数十のガートが存在し階層に
よって利用者が異なる。
 南方のアッシーガートは、老いた女性の姿が目立ち鮮やかな緑色のサリーを身につけた
女がいてガンガーの水でからだ
を清め対岸に向かって手を合わせる。そして銀器にガンガーの水を汲んで少しずつ垂らす。
それを何度も何度も繰り返す。
朝日が対岸から顔を出すと、あたりが赤く染まり神秘的な色合いを見せる。朝日に反射した
水面が黄金色に輝き川の中へ頭の先までガンガーの水に浸る。朝日に向かって一心に祈る
老若男女の姿は、昔から変わらない日常の営みが持つ「重み」を感じる。今後ヴナーラシーに
訪れる観光客がどのように変わろうとも、決して変わらない人間の最後の姿をここで見届ける
ことが出来ることであろう。
 ガートは思い思いの格好で沐浴する老若男女でいつものようにごった返している。両手に
取ったガンガーの水を朝日に向かって撒いている老人。長い間目を閉じて微動だにしない
若者など祈りの姿は色々である。
 
 ガンジス川沿いには、二つの火葬場がある。北の「マニカルニカー・ガート」は大規模で
観光客の姿も多いので、火葬の様子をゆっくりと眺めることはできないが、南の「ハリシュ
チャンドラ・ガート」の方は、長い時間見ていても文句を言われることは少ない。
 遺体は竹で組んだ担架に乗せられ、親族らに担がれて焼き場に運ばれる。黄色の布に覆
われた遺体は、まずガンガーの中に浸されて清められる。その間に、焼き場の準備が整え
られ薪で組んだ上に遺体を載せる。そして薪に点がつけられる。
やがて死体が炎に包まれると煙と灰が風向きによって焦げる匂いがただよってくる。でも、
香木を混ぜているのか匂いがしない。しばらくすると牛が、遺体を飾っていた黄色い花を食べ
にやってくる。死体が燃え尽きるまで一時間半から二時間ほどで薪が全て燃えると川の水を
かけ火を消し骨を火箸で拾い上げたあと、他の遺骨などはガンガーへ流す。
 ヴナーラシーの火葬場は、ヒンドゥー教徒にとって最大の聖地であり、ここで焼かれガンガー
に流すと、現世の罪は洗い流され、輪廻の苦しみから抜け出すことができると信じられている。
 ガンガー沿いを歩いていると、「ボートに乗らないか?」とか、「ハッシシを買わないか?」だ
とか声を掛けられる。
そのしつこさは旅行者が訪れることのできる聖地には付き物である。


インドの牛は大切!

インドの牛は、バラナシーの街中をはじめ交差点の真ん中や駅のホームにもノソノソと歩き回ったり
寝そべっています。また路地の裏通りに入ると、そこにも牛が寝そべっていたりと いうように至る
所で出くわします。
インド人が牛を大切にするのは、牛は聖なる動物であり、ヒンズー教の神シバの乗物だからです。
街中にいる牛を見て、汚い臭いなど言わずにしてくださいね?
 ヒンドゥー教徒の三大聖地の一つ、バラナシーを流れるガンジス河(ガンガー)の右岸には60
ものガート群が連なっています。
 そこで皆さんにお教えいただきたいのですが、バラ−ナシーのガート付近の火葬場付近に牛が
沢山いるのは何故なのでしょうか?牛は、時々川の中から上がって来て周囲をウロウロしています。

 川沿いの町へ通ずる路地を歩いていると死体を載せた担架とすれちがうことがあります。
路地は複雑で迷路となっていて大変不気味な所です。一人ではけっして歩かないで下さい。
私は、地図を見ながら歩いていたもりでしたが、道に迷ってしまいリキシャのお世話になり目的の
所まで行くことが出来ました。
 翌日一応ボートに乗って沐浴を見に行きましたが、川は比較的綺麗でした。数年前までは、
大変汚れていたようですが最近川の清掃をしたようです。
このガンジス川は、火葬された灰を流したりしていますが、インド人は聖なる川として沐浴に利用
しています。


クシーナガラ

クシーナガラの大涅槃寺にある釈迦の「涅槃像」は、5世紀のもので、
1876年に河床から発掘されたものである。
ここは釈尊が涅槃に入った場所である。

クシーナガラの涅槃像(大涅槃寺)


後戻りできぬ行者の道 内海雄哉大阿奢闍梨

---二度目の千日回峰行を満行されたのが1987年で、もう十数年前ものこと。振り返って、
第一歩を踏出すまでにも様々な事があった…

「今思えば何もかも夢のよう、勉強嫌い、社会の落ちこぼれの私がここまでこられたのは、
よき師、よき仏縁に恵まれたおかげ。最初の出会いのころ無動寺谷弁天堂の輪番だった
小林隆彰師(前比叡山延暦寺執行)は“仏道への導きの師”。39歳で得度のときは戎師も。
霊山院の小僧時代に仕え、雄哉の名をいただいた小寺文頴師は“学問の師”。そしてこの
飯室谷で20年間、師事した箱崎文応師は行動の厳しさを教わった“行の師”でした。」

---回峰行を始められたのも記録的に遅かった…。

「最初の出峰は1975年4月7日。49歳という年齢はちょっと例がない。その日は箱崎師の
誕生日でしたが、失った妻の17回忌の日でもあり、因縁を観じました。」

【千日回峰行の始祖は、9世紀の半ば第三世天台座主・慈覚大師円仁の弟子、相応
和尚(かしょう)で、延暦寺根本中堂の薬師如来から「礼拝苦行こそ真の法、それを行満した時
不動明王となり、一切の災いが取り除かれる」との夢告を受け、天台の教え「山川草木悉
有仏性」の実践でもある苦修練行に入ったのが始まりという。籠山12年間のうち7年間を、
3年目までは毎年百日、4,5年目は各二百日、1日30〜40キロの定められたコースを諸仏、
先師の墓などを礼拝しながら歩き、計700日を成就して堂入り。6年目は京都の赤山禅院
往復一日約五十キロを100日、7年目は前半百日を一日約84キロの「京都大廻り」、後半
百日を一日約30キロを行歩して満行する。】

---“生きたままの葬式”といわれる堂入りでは臨死体験も…。

「それ以前にも、常行三昧というきつい行を経験していたが、堂入りの九日間は食事、水、
睡眠を絶ち、横になることもできない。途中で息絶えることも覚悟のうえ。五日目から一日
一度、水で口をすすげる。一滴も飲めないが、舌に残った水の甘味。水がどんなに大切か
よく分かる。衰弱するにつれ逆に頭は冴えて、何でもよく見え、よく聞こえる。最後には死
臭さえ漂う…。」

---それほどまでの苦行を高齢でよく成就された。

「この行は一度始めると、途中で止めたり後戻りは絶対にできない。箱崎師は「行者の道は
進しかない。今歩いている道。それが行者の墓場だ」と言われた。学問は駄目でも、歩き
ならできると、この行道に入って学んだ事は、持続することの大切さ。これは何事にも言える。
皆さんの仕事も一つの行。「一日一生」の思いで真剣に取り組み、続けることです。」

---1日一生とは…

「山の中を1日40キロほどぐるぐる巡る。激しい起伏を上がったり下がったり。それは浮きつ
沈みつの人生そのもの。山を歩いている間は生、戻って草鞋を脱いで仏様にごあいさつして
今日の生の世界が終わる。きょうの自分はあすの自分ではない。あすは生まれ変わって新
しい自分で出発する。だから一日一生」

---行者の喜びは…・
「堂入りを終えると、自分のための「自利行」から、生きた不動明王としての「利他行」に変わる。
京都大回りなどで沿道で待ち受けてくださる人々の頭に数珠で触れ、お加持をして功徳を
分つのですが、小さな子供も「阿奢闍梨さんお願いします」と頭を下げる。こんな幼な子にも
信心が根付いているのかと胸が熱くなる。よい伝統が残っているんだと…」

---大阿者闍梨として今の世にもの申されるなら…

「戦後五十年余、日本古来の長所まで一緒に破壊した結果が今の混乱。五十年の病気を
治すには百年かかる。心配です。」

“行者中の行者”--比叡山大阿奢闍梨・酒井雄哉師を大津市坂本町飯室谷に尋ね聞く。
史上わずか三人という二千日回峰満行の偉業を成就したひとであります。他にも十万枚
大護摩供の荒行達成、仏教の聖地・天台山など中国始め、国内はもとより各地巡礼、
行脚と行道にうちこむ“生涯行者”の姿には頭が下がります。


     世界遺産インド」へ  「稲作民俗の源流


『竹取物語』研究所(竹取の翁・かぐや姫)小泉芳孝
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