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昔、清流と言われていた時の野洲川が舞台である。

野洲川は、滋賀県と三重県の境にある御在所岳にその源を発し、幾つもの渓流をあわせながら各市町村を通り北西に流下し琵琶湖に流入する河川の中で最大級である。

その頃釣り人は、この川に川遊びの好きな同僚に誘われてよく来たものである。

今や堰や年中行事となった河川工事、護岸工事等で川が寸断され、まともな流れが無く鮎が遡上出来なくなってしまい、漁協が各ブロック毎にびわ湖で獲った稚鮎を放流しているらしい。

したがって現在は、初夏を表す絵になる鮎釣り人の姿も、網打ち人の姿も殆ど見ることが出来なく寂しい限りである。

そのころの野洲川は真っ黒になるほど、鮎が遡上する風景がよく見られ、冷を求めて川に入ると足首にコツコツと鮎がぶつかることがあったぐらい多く泳いでいたものである。

この川には漁業組合があり漁期になると釣り人は漁業券を購入し、一日川で遊ぶのが常であった。

解禁後一ヶ月程は竿釣り、その後禁漁まで期間は主に投網と言われている網打ちで鮎を獲るのであった。しかしながら獲った鮎を殆ど食べた記憶がないのである。 何か目的は別にあったようである。

投網は鮎が居そうな川面に、丁度打ち上げ花火が開くように円形に大きく広げて打つのが技術である。

網の端部には鉛の錘が付けられその上部は返しと呼ばれる袋状になっている。 

通常、網をかけられた鮎は猛烈な勢いで下流に向って走り、網にぶつかって下へ潜るので返しの袋に入る仕掛けなのである。 その後円錐状の頂点に付いているロープをゆっくりと引き寄せ、萎める様にして川原に引き上げた後、返しに入った鮎を取り出すのである。

しかしながら昨今、投網を打っている仲間に会って話しをするとどうもぼやきが多く聞かれるようになった。

最近この野洲川に生息する多くの鮎は投網が被さっても、今までのように下流に向って猛烈な勢いで逃げなくなって、投網が被さったのを感じた鮎はゆっくりと石の間に沈んで底に身を横たえるとの事である。 そして網が石の上を手繰り寄せられ後に、再び浮き上がり逃げだすとのことである。

そしてその鮎は体型がずんぐりと小太りで顔が丸いと言う。 したがって彼らはこの鮎をネコ鮎と呼んでいる。

また、一般的に成長した鮎は石に生える珪藻をはむので、その畑となる石周りを縄張りとして持ち、よそ者鮎の侵入を許さないものであるが、驚くことにこのネコ鮎は縄張りを持たず、皆で仲良く群れてゆったりと泳いでいるとの事である。(皆なで渡れば怖くない鮎) さらに年々このネコ鮎、群れ鮎が多くなり最近では半分以上を占めるとの事である。 このままネコ鮎、群れ鮎が増加すれば、友釣りや投網による漁法が成り立たなくなる危惧にあるのだ。

ところで何故この忌まわしいネコ鮎、群れ鮎が何故に増加しているかを考えてみた。

まず投網では、毎年まともな鮎が獲られ続け、あとに残り産卵まで生き続けられるのはネコ鮎だけとなる。したがってネコ鮎の遺伝子を持った子孫がどんどんウエイトを高めていくことになる。

また、友釣りでも同じ理由で縄張りを持ち勇敢な本来の鮎がどんどん釣り上げられ産卵期までに数を減らす中で、群れ鮎は無傷で残り子孫を残すことになってしまう。

これらは正しくその環境に適応したものしか、生き残れない淘汰による進化論そのものである。

偶然と愚かな人間による淘汰の積み重ねで、野洲川の鮎はネコ鮎、群れ鮎たちへの進化?を今後も続けてよいのだろうかとふと疑問に思うものである。

しかし、失業、リストラ騒ぎが常に話題になったついこの間において、もっと醜く環境に適応すべくように迫られた人々は多い。 例えはネコ鮎の如く意見を言わず嵐が去るのをじっと待つ人や、赤信号皆んなで渡れば怖くない的な群れ鮎のような人が生き残ったと言われている。

そしてそれらに適応出来なかった人々は否が応でも失業、リストラのみちを選択させられたのある。 だが最近思うことは、我々はよりその環境?に適応したものしか、本当に生き残れなかったのだろうかということである。

結構、いい加減な人物ほど淘汰(リストラ)もされずに生き残っているように思えるのは、気のせいだろうか。 人間社会はより複雑であることに異論は無いが・・・

第二十四話

ネコ鮎と進化論


ネコ鮎

ずんぐりと小太りであまり泳ぎは得意でなく、顔は丸顔で正面から見ると猫に似ている。成魚になっても縄張りを作らず、群れで生活する。 毎年、生存率が高く子孫を多く残す。 人間社会でも同様な現象が最近特に多く見受けられる

2005.5.29

第二十四話 ネコ鮎と進化論