大和新庄城
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屋敷山古墳前に立つ石碑(04年11月)

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県道30号線の葛城市新庄にある屋敷山古墳が新庄城址である。古墳を含めて屋敷山公園と整備されている。古くは布施氏の屋敷があり、後に永井氏が入り、櫛羅へ陣屋を移すまで城下町であった。古墳を利用した城郭は多いが、ここもその一つである。城郭としての遺構は見るべきものが無い。近くの慶雲禅寺表門は、布施氏の築いた城郭の移築門と言われ、現存する。

 

国指定 史跡 屋敷山古墳(現地説明板より)

(昭和四七年三月二十五日 指定)

新庄町内で最大の古墳で、全長約一三五メートル、後円部径約七七メートル、同高さ約十五メートル、前方部幅約九〇メートル以上の規模をもつ、前方部を北に向けた前方後円墳です。 「屋敷山」の名は、中世〜近世初めにこの地を支配した布施氏が居館として利用し、さらに江戸時代の初めに桑山氏が陣屋を築き、周辺に屋敷を構えたことに由来しています。そのため、埋葬施設が破壊され、墳丘も著しく変形していますが、前方後円墳の輪郭をほぼ保っています。 埋葬施設は、長持型石の蓋石と小口板石、縄掛突起をもつ天井石が出土していることから、長持型石棺を安置した竪穴式石室であったようです。古墳の東側に周濠の名残りと思われる池があり、また、古墳の周囲には埴輪がめぐらされていたようです。 この古墳が造られたのは、古墳の形や長持型石棺の型式なから、五世紀中ごろと推定され、その被葬者は、古代大和の豪族であった葛城氏に関係するひとと考えられます。 この古墳は、古代の葛城地域を知るうえで重要なだけでなく、中世、近世の新庄を知るうえでもたいへん重要な意義をもっています。

葛城市教育委員会

 

 

新庄城址(屋敷山古墳前石碑文面)

慶長六年(一六○一年)桑山修理太夫一晴公 布施郷に入部 この屋敷山に築城し四代八十余年間藩政を施く 天和二年(一六八二年)永井能登守直圓公入部 文久三年(一八六三年)まで七代百八十余年間居城となる

昭和五十一年五月吉日建之