成生城
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本丸跡に祀られている竜頭神社(08年11月)

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天童市成生地区の谷地街道が押切川を渡る左手、こんもりとした鎮守の森が見える。ここに竜頭神社が祀られており、本丸跡。参道階段の右手に城址を示す木標が立つ。しかし、平成元年に設置されたもので、成生城の文字が不鮮明。比高10メートルの小高い丘で、本丸にはぴったり。北、東側には堀跡があり、現在空掘り。昔日は水濠かも。北には押切川が外堀の役目を果たしている。堀跡の側には薬師神社があり、城の守護神として祀られたもの。薬師神社境内の巨木が総て切られている。切り株が痛々しい。何の理由があったのだろうか。天童城主が元ここに居て、天童城を築城して移ってから重臣の成生氏が在城した。天正12年の戦乱では城主天童氏を裏切り、最上義光側にたつ。

親を呼んだ大けやき(市報てんどうNO.436「民話と伝説」より)

昔々、天童の殿様、天童頼直は、平城であった成生では、攻められたときに危ないということで、舞鶴山に城を移しました。そのとき、天童氏の家老であった成生伯耆守は、成生庄を殿様からもらいました。それから、しばらくして、野心のある山形城主最上義光は、各地の城を攻めたて、天童城をも襲ってきました。天童城も必死に戦いましたが、成生伯耆守は、裏切って、最上勢に味方してしまいました。ついに天童城は義光によって滅ぼされてしまいました。裏切者の伯耆守は、義光が恩賞をくれるというので山形城に出向きました。しかし、義光は、恩賞を与える気持ちなど全然ありませんでした。天童城を滅ぼすための策略だったのです。伯耆守は、待伏せしていた、侍に殺されてしまいました。成生城では、帰って来ない伯耆守を心配して、娘が、大けやきに藤づるをつたって昇り、三日三晩、親を呼んだということですが、帰ってはきませんでした。娘の昇った大けやきは、その後、東本願寺の門徒衆に切られて、京都まではこばれ、東本願寺の御拝柱になったと伝えられています。むほんを起したものの末路は、決して、良くないと、村人たちは、今もいい伝えています。   資料提供 奥山助左衛門さん(成生)