松山城
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豪壮な櫓門(08年11月)

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新庄から鶴岡へ向かうJR陸羽西線余目駅から東へ。最上川を越えると酒田市松山町に入る。背後に山を背負い、町全体が城郭のようなこぢんまりとした城下町。藤沢周平文学に出てくる、東北の小さな藩のたたずまいにぴったりと言った雰囲気である。町の中央にある松山歴史公園があり、ほぼ本丸跡。松山文化伝承館が建つ。公園中央には二層櫓門が孤影を落としている。山形県では現存する城郭建築としては珍しい建造物である。屋根上の鯱が、町全体を見守っている。松山藩のような小藩がこれだけ大きな櫓門をもつことじたい、他藩ではありえなかったのではなかろうか。本丸土塁が一部現存しており、外堀の一部も復元されている。町のあちこちに説明板があり、城郭ファンにとってはありがたい。一日のんびりと散策したい町である。46年前見て感動した写真と少し形を変えたが、目の前にある門は間違いないものであった。

松山藩及び築城の沿革(現地説明板より)

中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す 江戸期初頭荘内藩主酒井忠勝公の遺命により第三子酒井忠恒公に荘内の所領の中中山村外三十五ノ村及び村山郡の中左澤地方七十四ケ村併せて知行二万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す 正保四年(1647年)十二月十一日其の許可を得たり 依って寛文元年(1661年)中山地内稲荷沢古館の跡を遊び此処に館を構築し中山陣所と公称し政庁を開く翌二年忠恒公家臣団と倶に鶴ヶ丘より移駐し鶴ヶ丘亀ヶ崎に因み中山を松山に改め以後松山藩と公称す  越えて第三代藩主酒井石見守忠休公幕閣に列し若年寄の重職を歴任す 安永八年(1779年)十二月十五日幕府忠休公永年の勤功を嘉し上洲の地桐生地方五千石を加増し城主を命じ松山に築城を許可す 以後松山藩二万五千石の表高となる  依って宗藩鶴ヶ丘の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い執政上野織右ェ門安那を総奉行に任命し天明元年(1781年)五月工事に着手す以来巨額の工費と人力を動員し天明七年(1787年)九月に至り本丸仮御殿を落成し第一次の築城工事を終わる時巳に忠休公逝去し第四代忠崇公之に替る以来荘内松山城としてその威容を近隣に誇り幕末に至る 時に藩主第七代紀伊守忠良公たり世情まさに王政復古の動乱期に当り慶応四年(1868年)の春以来宗藩と共に武門の誉れを守る  明治元年(1868年)維新後宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により時の政府に城池没収取り毀しの厳命を受け遂に全城郭を破却の止むなきに至りここにその当時の偉観を全く失うに至る実に創藩以来二百年余築城以来八十有余年に亘る松山藩の命運であった

松山城大手門

天明元年(1781年)築城に当り本丸西方外濠に面し城郭の正面として翌二年九月に竣工し通常端門又は多聞楼と称せらる  完成以来九年目即ち寛政二年(1790年)秋十月十日の早暁屋上に落雷し之を焼失す 時に酒田在住の荘内藩士並びに松山藩財政方本間四郎三郎光丘同次郎四郎重利の両士大手門再建を藩庁に出願す 藩庁為に幕府の許可を俟ち寛政四年(1792年)六月二十六日再建完成す  現存の城門即ち大手門これなり 翌五年山形銅町の鋳工庄司氏造るところの青銅の鯱一対 屋上に飾り再建の主旨を銘記す 鯱の高さ四尺八寸(約1.45米)造形極めて優美なり(現在屋上にある鯱は大手門再建二百年を記念して平成四年四月山形市銅町庄司逸雄氏により製作されたものである)藩政時代階上に非常の兵具を配置し階下の門扉(現在は無し)の両側に下士十二名門番として昼夜常駐せり中一名は面番役又一名は下座見役とし常に拍子木を持ちその打数により時刻並びに登城の士の通過を門番に通報する 但し藩主不在中は大門扉を閉じ側の潜り戸より通行することを例とせり 明治二年城郭破却中来松の按察使坊城俊章閣下による格別の取り計いにより破却を免れ得たものと伝えられる後に旧藩校の流れを汲む松嶺正心学校の校舎として子弟教育の場となり貢献長期に亘る 再建以来実に二百有余年の風雨に耐え当時の城郭をしのぶ唯一の建物として今尚毅然として城趾に建つ    昭和四十五年(1970年)二月四日山形県文化財の指定を受け現在に至る    平成九年六月  松山町教育委員会