新庄城
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のんびりした釣人が多い本丸土塁と堀(08年11月)

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11月初旬の羽州街道(国道13号線)を北進して、新庄市へ。戸沢氏が寛永年間に築いた城で、新城から新庄になった。最上公園が城址本丸。周囲には市民文化会館や各学校が取り巻き、自然環境の良い城址である。城内の木々も紅葉が進み、迎える冬を想像させる。本丸の約半分残る堀では、のんびりと釣り糸をたれている人が多数、ここは釣り禁止にはなっていないようである。東側に開けた大手門。門の石垣台座が城郭の規模を想像させてくれる。真ん中に城主を祭る戸沢神社があり、ここが本丸御殿跡。七五三の御参りの人がチラホラ。西側にある天満神社拝殿は遺構建築物で楽しみにしていたが、現在解体修理中。残念、近づくことも出来なかった。晩秋の時雨に追い立てられるように、急ぎ足で見学。元は沼田城と呼ばれていたことから、この辺一帯は沼と田が点在した場所に縄張りしたことを想像させる典型的な平城で、土塁も所々残り、案内板も整備されていて山形県内でも有数の城址の一つ。慶応四年の戦いで焼け落ちている。近くの最上川沿いには戸沢藩口留番所が残り、現在は最上川船下りの観光船発着場になっている。

新庄城について(現地説明板より)

新庄城は、寛永2年(1625)、新庄藩初代藩主戸沢政盛が築いた城である。創建時の新庄城は、本丸中央に3層の天守閣、3隅に隅櫓、表御門・裏御門を備え、二の丸は役所や米倉、大手門・北御門を有し、三の丸には多数の侍屋敷を区画した堂々たる近世城郭であった。  新庄藩は最上郡一円と村山郡の一部、6万石(後に6万8200石)を領した。藩主戸沢氏は元和8年(1622)から明治初年まで、11代250年にわたり、この城を拠点として藩政を展開した。  慶応4年(1868)7月、新庄城は庄内勢に攻められ、黒煙を吐いて焼け落ちた。明治に入って、新庄城は廃され、跡地は新庄学校・勧業試験場・招魂社・郡会議事堂などの敷地として利用された。  図は郷土画家尾形芦香(1858〜1946)が、自分の幼いころの記憶を古老の証言で確かめつつ描いたもので、幕末時代の新庄城の様子を今に伝えている。   平成5年8月  新庄市・新庄商工会議所

表御門跡(現地説明板より)

本丸正門のあったところ。表御門はこの石垣を土台にした櫓門であった。   平成五年四月  新庄市・新庄商工会議所

裏御門跡(現地説明板より)

本丸北側にあった城門の跡。裏御門は高い石垣の上に築かれた櫓門であった。   平成五年四月  新庄市・新庄商工会議所

御用水(現地説明板より)

指首野川から分水して城内に引き入れ、用水としていた。この堰では決して穢いものは洗ってならないとされていた。   平成五年四月  新庄市・新庄商工会議所

御物見跡(現地説明板より)

ここに城外の様子をうかがう建物があった。この土塁の上に土塀がめぐらされていた。   平成五年四月  新庄市・新庄商工会議所