淀城
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天守台(城内より)(01年11月)            天守台内部(01年11月)

その他の写真

京阪電車「淀」駅からは目の前、ホームから天守台の石垣が良く見える。城址入口は、駅の通勤者達の格好の自転車置き場と化し、通行の妨げになっており、城址の景観をも台無しにしている。自転車の間を抜けると、左手に天守台が見える。入口は柵で塞がれており、内部に立ち入ることは出来ない。上右の写真は天守台内部の様子である。1968年に訪れてから33年経つ。当時の写真を見ると、天守台は柵など無く、自由に出入りすることが出来た。もちろん現在見るような内部ではなく、総て土に埋もれていた。その後、発掘調査がなされ、現状のような穴蔵が表に現われたのであろうか。時間の経過を見比べるのも面白い。もう一つ違いを言うなら、石垣上にあったヒマラヤ杉(?)の大木が無い。だいぶ切られている。そのせいか少し明るくなった感じがする。もちろんこの城は淀君がいた淀城ではない。そちらはもう少し離れた所にあった。

 

淀 城 の 由 来 (現地説明板)

徳川二代将軍秀忠は、元和五年(一六一九)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(一六二三)に着工、寛永二年(一六二五)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿舎としている。  寛永十年(一六三三)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(一七二三)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。  江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。  淀城とその城下町の盛観は延享五年(一七四八)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。  昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(一七五六)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。  なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。    京都市

 

淀 城 址 石 碑 (本丸跡に建)

表面

   淀 城 址

            子爵 稲葉正凱書

裏面

當淀城ハ元和九年六月秀忠將軍ノ松平越中守定綱侯ニ伏見城ノ遺材ヲ与ヘテ営築セシメシヲ以テ初メトス後永井信濃守尚政石川主殿頭憲之松平丹波守光熙松平左近将監乗邑ノ四侯ヲ経テ享保八年五月朔日稲葉丹後守正知侯下總佐倉ヨリ移封セラレテ茲ニ治ヲ敷キ子孫世襲明治維新ニ及フ実ニ二百五十有餘年ナリ明治七年全部破却今ハ纔ニ其遺址ヲ存スルノミ今茲大正十二年恰モ御移封後満二百年ニ相当スルヲ以テ報本反始ノ誠ヲ効スヘク同志五百有餘人相謀リ五月六日ヲトシテ城址ニ記念会ヲ開キ今又石ヲ立テヽ其治革ヲ略叙シ一ハ以テ記念ノ意ヲ寓シ一ハ以テ後世考古ノ資ニ供スト爾カ云フ          大正十二年五月六日          稲葉侯御移封二百年記念会建之(碑文は縦書き)

 

田 邊 治 之 助 君 記 念 碑(本丸跡に建)(明治維新の犠牲者の一人)

表面

    田 邊 治 之 助 君 記 念 碑

                                     子爵 稲葉正凱書

裏面

慶應四戊辰正月三日鳥羽伏見ノ役当時我カ淀藩主稲葉正邦公ハ幕府ノ老中職トシテ江戸ニ在リ因テ藩士ハ堅ク城門ヲ鎖シテ留守ス其大手門ハ者頭役田邊治之助君ノ守ル所ナリ五日後退セル藩兵門内ニ闖入シ来ルモノアリ守兵直ニ之ヲ拒ミ出シタルモ時偶々城中ニ在リタル君ハ此ノ報ヲ聞クヤ守門ノ責任ヲ痛感シテ自刃ス其壮烈ナル実ニ士人ノ典型ト謂フベシ今ヤ士道頽廃責任観念ノ缺如セルノ際今年恰モ七十周年ニ相当スルヲ以テ我等同人君ノ高風ヲ欽慕シ相謀リ碑ヲ建テ其事実ノ梗概ヲ記シ後世ニ伝ウト云爾       昭和十二年九月          田邊治之助君記念碑建設有志者建之       石工榎並丑松