西宮砲台
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海側より見た全景(2003年1月)       陸地側、一層目の入口、二層目の砲眼と窓(2003年1月)

西宮の酒造蔵とマンション群が混在する道を通り、浜に出ると防波堤から少し頭を出した砲台が見える。一見、コンクリート製のように見えるが、花崗岩の石組みに漆喰を塗ってあるという。太平洋戦争の生き残りかとも思える新しさである。これを古城の部類に入れるのは、私自身も抵抗があるが、消え行く物の将来がみえそうである。海に面している方はきれいだが、裏にまわると写真のように漆喰が変色している。全周に砲眼が開いており、一階入口扉の真上のは、砲眼ではなく窓だという。そういえば少し形が違う。海岸防備ならなぜ全周に砲眼が必要なのだろうか、不思議に思う。徳川幕府は異国船だけでなく、西国の大名も視野に入れていたのかもしれない。などと想像できる建造物である。今はそんな過去を忘れ、マンション群の下で、忘れ去られようとしている。犬を連れた近所の若者も、邪魔なものと言わんばかりに通り過ぎていった。これと瓜二つのものが神戸市の和田岬にある。それは民間会社の敷地内にあり、所有も会社である。表面は石がむき出しになっており、石造りの構造が理解できる。これら二つとも、太平洋戦争での爆撃からよく生き残ったものである。異国船打ち払いに対してもお飾り的なものだったようなので、アメリカ空軍も別段脅威には感じていなかったのかもしれない。他に舞子にも同じ時期につくられた砲台があった。

 

西宮市の説明板が、縦書きと横書きの新旧二つある。少し違いがあるので、それぞれ載せる。

縦書き(旧)         国指定 史跡

西宮砲台

   江戸時代末、国防不安を感じた江戸幕府は、

勝海舟の建議を入れて、摂海防備のため砲台

を築いた。この砲台はその一つである。             

 高さ十二メートル、直径十七メートル、構   

 造は石造三層の円堡で、二層目の側面に砲眼

十一個を開き、大砲二門をすえて筒                  

口を四方に向ける装備であった。文久三年( 

一八三六年)から慶応二年(一八六六年)の 

間に築造されたが、空砲を試射したところ、 

砲煙が堡内にたちこめ、実際には使用されな

かった。明治十七年(一八八四年)火災によ 

  り内部の木造構架を焼失したが、昭和四十九年

(一九七四年)の修復工事により、外部構造が

復元補強された。                                                

                 西宮市教育委員会

 

横書き(新)         国指定史跡

                    西宮砲台  一基  指定年月日 大正11年3月8日

  江戸時代のおわり、国防に不安を感じた江戸幕府は、

 都を警護する要地にあたる大阪湾に砲台を築きました。

  その工事は文久3年(1863)から慶応2年(1866)まで、

  続き、あしかけ4年間もかかっています。                                  

土堤で囲った中央部に、松クイを1000本以上も

打ち込んだ基礎とし、カコウ岩の大岩を組みあげてい

ます。本体には砲眼11個と窓1個が穿たれ、大砲で四

 方をねらうことができました。実際には使われること          

なく明治時代をむかえました。                                                

                    西宮市教育委員会