北目陣屋
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陣屋跡、奥が薬師神社(03年12月T氏撮影)    陣屋移築建物(03年12月T氏撮影)

その他の写真

天童市北目一丁目四から三番にあった。現在は住宅が建ち並んでおり、その面影はない。わずかに建物の一部が存在している。天童市上貫津に格知学舎として残る。建物は明治3年、太田氏に払い下げられている。その一部が格知学舎の建物と想像する。現地には当時使用されていた古井戸が草に埋もれて残り、その奥には土浦藩氏神の於産稲荷神社を勧請した分社がある。土浦藩土屋分領であった北目は明治4年の廃藩置県により山形県に入る。北目陣屋の初めははっきりした資料がない。山形藩最上氏が改易になるまでは最上領であったが、その後の時代に土屋領となり、北目陣屋が設けられたものと思われる。北目、川原子、乱川、下奈良沢、下原町、老野森、藤内新田、高野辺が土屋領であった。陣屋面積は約1500坪と伝えられている。写真左の奥に薬師神社があるが、そこに保存されている「誠心」の扁額は、元北目陣屋に掲げられていたものという。天童市は、2000年12月26日に、茨城県土浦市と観光相互交流協定を結んでいる。(一部は郷土史「下北目の歴史」を参考にしました)この一帯は天童山城時代に武家屋敷が建ち並んでおり、搦め手口であった。天童城落城後、家臣新関、三瓶、佐藤氏などが土着し、今も子孫が住んでいる。前記、薬師神社が天正13年創立と伝えられており、これも最上義光の住民対策の一環なのかもしれない。天正12年10月の落城まで、大手口は城山の東側であり、羽州街道もそこであった。その後、街道も西側にかわり、街道に面して北目陣屋も建てられた。「奥の細道」の俳聖松尾芭蕉も、山寺に行く時には、陣屋正門前の西側の街道を歩いている。その後、昭和の車時代には国道も東側バイパス道路に移り、再び昔にかえっている。(04年6月、格知学舎を訪れ、当主本沢氏に問うが、「格知学舎の前身が北目陣屋の建物だったとは聞いたことが無い」との返事だった。これに関して、情報を持っている方がおられたら、ご一報ください。)

 

北目陣屋と薬師堂(薬師堂前説明板より)

北目陣屋は、寛政三年(一七九一)土浦藩土屋氏の分領村山十八ヶ村(北目村、老野森村、外一三○○○石)の役所として設置され明治三年廃藩置県まで存続した。 薬師堂は、もと愛宕山上にあったが、延宝六年(一六七八)この地に移建された。天童札所十番である。

古井戸(現地説明板より)

北目陣屋内には、代官以下三十余名が執務した。この井戸は陣屋内の飲料水として常用された。     昭和58年5月31日 天童市 天童ライオンズクラブ