柳本陣屋
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黒塚古墳濠に残る陣屋の石垣(05年6月)

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 奈良には織田家が二家ある。どちらも信長の弟、有楽斎系統である。五男尚長柳本に陣屋を構え柳本藩に。四男長政が芝に陣屋を構え芝藩となる。柳本小学校が陣屋の中心地で、黒塚古墳が陣屋の一部として利用された。戦国時代には黒塚古墳も砦として利用され、前方部と後円部の間には、堀跡が発掘されている。この古墳があったので陣屋の石垣の一部が残り、家老屋敷も趣をそえる。近くの長谷街道には元庄屋に移築した陣屋西門が残る。ただし荒れ放題といった感じで、公的な手が加えられないのか不思議だ。城ファンにとっては、消滅する前に何らかの保存処置を施してもらいたい。天理市はたくさんの文化財を抱えており、そこまで手が回らないのかもしれない。しかし、この移築門を見るにつけ、近世末文化財の冷遇には納得しがたい。33枚の三角縁神獣鏡を出した黒塚古墳の復興保存状態と比べると。入場無料の立派な展示館が建てられている。天理から国道169号線を南下し柳本交差点を右折、直ぐ。又はJR桜井線柳本駅下車、東へ600m。橿原神宮文華殿は陣屋表向御殿(重要文化財)。小学校に転用したが昭和42年、神宮に移築保存。最近は結婚式場にも使われている。

 

黒塚古墳展示館(展示物の一部)

黒塚古墳は現在も、柳本町の市街地にあるため市民の憩いの広場として活用されているが、別の目的で利用が確認されるのは室町時代ごろからである。古墳の周辺を散策していると五輪塔や石仏が見られる。これは古墳を利用して室町時代ごろに墓が作られた。 室町時代の後期になると、古墳が大幅に改変されて砦として利用された。柳本は古くから興福寺の荘園となり楊本氏が庄官を勤めていたが、その後、十市氏の支配する領地となり、元亀2年(1571)柳本城に付け城を用意した。これは黒塚古墳を砦とした最初の時期であろう。天正3年(1575)には、柳本城は松永久秀の手に帰し、甥の松永金吾が入城した。同5年(1577)10月には織田信長による対松永戦が始まった。早くも同月1日には、金吾は楊本クロツカにて自殺を図り落城した。 柳本近辺はこのような激戦の地であったわけであるが、発掘調査によっても砦として改変されたあとが確認された。江戸時代の柳本天正8年(1580)に織田信長により柳本城は破却され、元和2年(1616)には織田長益(有楽斎)の5男尚長が同地に陣屋を構えた。明治4年(1871)の廃藩置県で柳本藩が廃止されるまで255年間当地を治めた。

 

城郭に利用された跡(現地説明板より)

くびれた部付近で検出された掘割である。V字状にうがたれ、上面の幅は約6mあり、深さは3mに達する。後円部と前方部を分断して、後円部を主郭とし守りの要としたであろう。室町時代後半の戦国時代になると古墳が大幅に改変されて砦として利用されたのである。あしもとの部分は掘割を表わしている。