御着城
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城址に建つ城郭風の姫路市出張所(05年4月)

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国道2号線を東進、天川を渡ると横断歩道橋、その一帯が御着城址。国道2号線により、みごとに分断されている。左手に公園・支所・グランドがあり、公園の一角に復元城壁をバックに石碑がある。支所の西側に黒田家の廟所、北側には堀跡にかけられた石橋、グランドの東側には土塁と堀跡が残る。国道を挟んだ南側には小公園があり、ここが本丸跡。小さな祠があり、こちらが古城跡の趣が残る。支所の建物が城郭風。屋根の上には望楼のある、現代に復活した御着城である。付近の住民の熱意が伝わる城址である。

御着城跡(現地説明板より)

御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。永正一六年(一五一九)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され天正六年(一五七八)か七年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(一四四一〜四四)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(一四九二〜一五○一)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していた。 昭和五二〜五四年の発掘調査で、御着城が一四世紀後半から一六世紀後半まで存続し、一六世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた事が判明。中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。 宝暦五年(一七五五)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。

平成一三年三月 姫路市教育委員会

小寺大明神(本丸跡公園説明板より)

この地は、永正十六年(一五一九)に小寺政隆が築城したといわれる御着城の本丸跡に位置している。 小寺大明神は、宝暦五年(一七五五)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、社には御着城の城主であった小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしている。

姫路市教育委員会

姫路城主・黒田家の墓所(現地説明板より)

ここの墓所には、黒田孝高(よしたか)(官兵衛のちの如水)の祖父・重隆(しげたか)と生母(明石氏)の2人がまつってあります。 黒田家は御着城主小寺家の家老となり、重隆の時から姫路城を守って姫路城主となりました。姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高とつぎましたが、1580(天正8)年秀吉の播磨平定の時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と自分は国府山城(妻鹿)に移りました。職隆の墓所は妻鹿にあります。のちに黒田家は筑前福岡の城主となったので、どちらの墓所も地元では「チクゼンサン」と呼んでいます。 ここの墓所は、1802(享和2)年に資材を九州から運んできて造られました。廟屋を持つ立派なもので、周りの龍山石の石塀から内部は、昭和56年に姫路市の指定史跡となっています。

天川橋(現地説明板より)

姫路藩が文政一一年(一八二八)にこの地より南西二○○メートルの旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋。全長二六・六メートル、幅四・四五メートルで、高さは約五メートルで橋脚五本。印南郡石工瀬助・仲右衛門の作。姫路藩儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある。橋の東北詰めには高札場があった。昭和四七年九月九日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため撤去し、昭和五三年一○月現在地に移設保存した。高さは地形に合わせて低くしてある。地形中央部の低いところは御着城の濠跡跡。

平成十三年二月 姫路市教育委員会

墓所内の板に書かれた漢文(*は判読不明文字)

是我藩祖 宗卜公及 宗圓公夫人明石氏之墓也今茲享和戌藩命 安義等修之以建碑兆城東西四丈五尺南北六丈四尺有奇*板屋一間以覆其墓崇丈三尺廣九尺有奇四周伐石為垣東西二丈一尺南北*尺外繚*亦以石東山三丈七尺南北四丈一尺南設一門固其扁**階三級其一、置石為拝謁所十月五日始工十一月十二日戌是役也木石運藩之*産而用之及其工亦然是藩奉先所以致其誠也筑藩臣喜多村安義頓竹謹記

御着城本丸趾石碑文(現地石碑より)

御着城は天川城とも云い東西約二二七メートル南北約二一四メートルの地域に此処を流れる天川の水面より約五メートルの丘地を城域としその本丸二の丸は何れも約一○九メートル四方あったので御着茶臼山城とも呼ぶ 初代城主加賀守小寺藤兵衛尉政隆は 村上天皇の第七皇子具平親王を祖とする赤松族宇野家末葉小寺豊職の子で永正十六年御着に築城して之に移ったが享禄三年浦上村宗に攻められて討死した 政隆の子則職は政隆の死後御着城に移り住みその後は則職の子政職が之を守った その頃羽柴秀吉に攻められ政職一族の精兵は秀吉軍勢と一時辰巳の谷に退陣させ奮戦したが衆寡敵せず遂に天正六年七月落城した 小寺城主は此地に三代に亘り六十四年間居城した政職の子久兵衛政則は城域御着を流れる天川の辺に住んだのでその名をとって小寺の姓を改め天川久兵衛と名乗り大庄屋を勤めた天川久兵衛の子孫は代々此地に家系を継ぎ天川藤三に及びその一女みをは龍野藩主脇坂家より眞雄を迎え藤三の次代を継ぐ眞雄の子保を経てその長男誠は太平洋戦争に戦死し遺子長男天川洋介は家系を継いで現在に至る

昭和四十一年四月吉日誌す

碑文(本丸跡神社脇石碑より)

この五輪塔及石佛は旧御国野小学校々庭を発掘調査した時に出土したものを復元したものです昔御着城があった時豊臣秀吉の軍と戦い戦死した御霊の菩提を弔うために建てたものと思います

平成元年七月吉日