姫路城
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との一門(02年3月)                     ほの門、油塀(02年3月)

 

姥が石(金網中)(02年3月)                三国濠の石垣継ぎ目(02年3月)

水一門、油壁、ほの門(1968年8月)

その他の写真

あまりにも有名な姫路城、別名白鷺城のなかで、異質な建物がある。本丸天守をかためる一つの「との一門」である。白鷺城の別名のとおり、純白の漆喰塗りの中で、これだけ板張りである。  現存する姫路城は池田輝政が築いたとされている。池田時代以前は豊臣秀吉がここを本拠にして、毛利攻めをおこなっていた。彼の姫路城(姫山城)が、現在の白鷺城のなかに現存している。上の写真がそれである。「との一門」は秀吉時代の櫓門(置塩城から移築)を転用したもので、昭和の大修理以前は漆喰塗りのものであったが、修理後に秀吉時代の姿に戻したものである。  油壁も秀吉時代のものと言う。  姥が石は、秀吉が姫路城を築く時、城下の老婆が寄進したもので、この名がついたとの伝承である。 この他にも石垣の継ぎ足し部分が見られる。これは輝政時代以前のものとの結合部と見られている。また乾小天守石垣が秀吉時代の天守台石垣と伝えられてきたが、昭和の大修理で間違いが指摘された。現在の天守台地下に秀吉時代の石垣が発見されている。また秀吉時代の天守閣各部材が、現在の大小天守閣に転用されていることも判明している。解体修理を担当した加藤氏は、秀吉時代の天守閣を、二階大入母屋に望楼がのる三重天守閣で、犬山城、丸岡城天守閣ににているという。  現在のように建物も使い捨てではなく、利用できるものはリサイクルされていたことがわかる。  そんな目で見ると、姫路城の優美な姿も別の面を感じさせる。

姫路城は (姫路市のパンフより)

播磨の守護職赤松則村が元弘3年(1333)ここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346)城を構えたことに始まり、その後小寺氏、黒田氏が據っていました。最近の研究では築城は16世紀中頃の黒田重隆・職隆のときとする説もあります。黒田官兵衛孝高のとき、彼の勧めで羽柴秀吉が天正8年(1580)西国攻略の根拠地として入城し、翌9年3層の天守閣を完成させました。  その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関ヶ原の役後、徳川家康の女婿池田輝政(52万石)が入封し、慶長6年(1601)から8年の歳月を費やして南の外濠を現在のJR山陽本線付近とする程の大きな規模に城域を拡張し、姫山に5層7階の天守を築きました。池田氏3代のあと入封した本多忠政(15万石)は、長男忠刻とその室千姫(徳川秀忠の長女)のために、西の丸を整備して、元和4年(1618)今日に見る姫路城の全容を整えました。その後、城主は松平氏、榊原氏と変わり、酒井氏が寛延2年(1749)入封して明治維新を迎えました。

油壁 (姫路市パンフより)

  姫路城の壁は殆んど白漆喰で塗り込んでありますが、ほの門の内側にある油壁は粘土に豆砂利を混ぜ、米のとぎ汁で固めたものといわれ、秀吉築城の名残りの壁と思われます。

姥が石 (姫路市パンフより)

  羽柴秀吉築城のとき、貧しい老婆が石うすを寄附し、この噂が町中に広まって、多くの石が集まり、城の石垣が完成したと伝えられています。

菱の門(1968年の説明板より)

二の丸の大手を固めた櫓門。柱や扉は欅材を用い筋鉄饅頭金物、八双金物を打ち、脇戸をつけ両柱の上の冠木に木彫の菱の紋を打っている。これが門の名の起りである。東に門番部屋、西は物置、冠木の前に隠し石落しがある。櫓の正門*は連続式者窓の左右に華燈窓、東端に出格子窓、裏面は連双武者窓の左右に出格子窓、西側にも出格子窓、壁はやはり白漆喰総塗籠で木型を見せ東側は大壁としている。屋根は入母屋造りで、西側の入母屋破風には狐格子をはめ拝み下に三つ花懸魚といったしゃれた意匠、櫓の内は三部屋になっている。軒は化粧軒で屋根の勾配軒四隅の反転など何ともいえない。全国で類ない桃山時代の特色ある、華麗な城門である。*は面の誤りか?