解説: 桜井市高家地区から眺めた飛鳥の夕日である。 眼下には八釣の里、正面に畝傍山、さらにその後方には二上山。今まさに その二上山に日が沈もうとしている。 二上山は奈良盆地の南西、奈良県と大阪府の間に位置し、ラクダのコブ のような二つの峰からなる山である。奈良県側から見て右側の峰を「雄岳」、 左側のちょっと低めの峰を「雌岳」と言い、雄岳山頂には、悲劇の皇子 大津皇子の墓がある。 この山に沈む夕日を最初に撮ったのが、奈良を代表する写真家、故入江 泰吉さんである。入江さんは、「大津皇子の怨霊を写真で表現したい。」 という思いを持たれ、多くの写真を撮られてきた。その作品たるやものす ごく、多くの人を魅了し、結果、この山の存在を世間に知らしめることと なる。 撮り方は基本的に、雄岳,雌岳の真ん中に太陽を沈めてやるというもの。 思い通り鞍部に沈めればしてやったり。さらに、それが素晴らしい夕日で あったらいうことない。どこか、パチンコのチューリップに似ているもの を感じる。(私はパチンコはやらないが...) 撮影場所は、おおよそ天理市周辺から明日香村あたりまでであろうか。 まずは冬至。このころの太陽は南に傾いて沈むので、その位置と二上山を 結んだ線を延長したところ、つまり、天理市あたりに場所を探すことにな る。どこでも良いという訳ではなく、絵になりそうなところでなければい けない。まずは山の辺の道、崇神天皇陵あたりか。ここが2月22日前後。 次が桧原神社境内。ここが3月11日。春分の日は太陽は真西に沈むので、 撮影場所はその真東、大神神社あたりとなる。(ただし、真西に沈むのは、 太陽が地平線に達した時。山に沈む太陽は、沈んだように見えても、まだ 山の後ろ(上空)にあるので、若干補正して考える必要がある。つまり、 太陽は南から斜め45度の角度で沈んでいくので、その時点ではまだ真東 には達していないことになる。)その後、桜井市を通過。4月の下旬には 明日香へと入る。高家が5月初旬。甘樫の丘が5月12日。岡寺周辺が 6月上旬。そして最後が石舞台あたりとなる。それが6月下旬、つまり夏 至である。 その日を境に、太陽は来た道を南下。逆に、カメラマンは北上していくこ とになる。 当時は、奈良に行くたびにこのような夕日をねらったものだ。しかし、 今から思えばなにも二上山にこだわる必要などなかった。ネコも杓子も、 大津皇子の怨霊を撮っていてもしょうがなく、それは入江さんにまかせて しまえば良いことではなかったか...。真似ではなく、自分独自の作品 を残せば良かったのだ。しかしながら、それに気づくまでに10年も掛か ってしまった。 先日、本屋で二上山の夕日の特集が組まれた本を見つけた。あるカメラ マンがひたすら二上山に沈む夕日を追っかけているという。いまだに、撮 り続けている人がいるのには驚いた。紙面には数十枚の写真が載っていた が、どの写真を見ても平凡な写真に思えてならなかった。 昔はこういう写真を見せられると目の色が変わったものだが、なんの感動 も感じないのは不思議である。 月日の流れは、こうも人の心を変えてしまうものなのか.... ご参考: 大津皇子とは、天武天皇と大田皇女との間に生まれた皇子。大田皇女は早 くに死亡。その妹“鵜野皇女”(後の持統天皇)が権力を持つようになる。 鵜野皇女は我が子、草壁皇子を皇位に付けたいと願うが、どうしても大津 皇子が邪魔な存在である。そこで一計を案じ、謀反の疑いで大津皇子を捕 らえ、自殺に追い込んでしまう。その後、病弱であった草壁皇子は28歳 という若さで病死。その息子、軽皇子が皇位を継承、文武天皇となる。 刑死に処せられる時、磐余(いはれ)の池の堤で悲しんで詠んだ大津皇 子の歌 「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を、今日のみ見てや雲隠りなむ」 さらに、姉の大田皇女の、弟の死を嘆き悲んで詠んだ歌 「うつそみの人にある我れや明日よりは、二上山(ふたかみやま)を弟背(い ろせ)と我が見む」は広く知られている。