2月 室生寺 雪の五重塔 3月へ

解説:
--------- 土門 拳 生涯とその時代 法政大学出版局 より抜粋 ---------

 土門の「室生寺ひとむかし」によれば、1946(昭和21)年初夏、土門
は荒木良仙住職と語り合い、老師に四季の中でどの季節の室生寺が一番美しい
かとたずねた時、「全山白皚々たる雪の室生寺が第一等であると思う」と答え
た。土門は雪の室生寺を知らず、蝉時雨の降るような青葉の室生寺が、一番好
きだった。室生寺ぐらい山気がジーンと肌に迫るところはなかったのである。
 雪が降ったと電報をもらい、大急ぎで東京から出かけるが、着いた時には溶
けてしまっていたということが、何度もあった。『女人高野室生寺』をまとめ
るにあたって、雪の室生寺をどうしても撮って入れたかった。原稿の締切を延
ばし延ばしにした挙句、これが最後の機会と考え、撮影行を計画した。版元の
美術出版社ではこの雪の部分のページをあけて刊行を待っていた。毎日のよう
に橋本屋の女将に電話を入れるのが日課となっていた。
 橋本屋は一年中予約で一杯、何日もねばるわけにはいかなかった。それで、
弟子の北沢勉に頼み、1978(昭和53)年2月中旬、弟子の毛利と長男樹
生とともに、奈良県御所市の病院に入院、療養しながら雪を待つことになった。
例年にない暖冬で、天気予報は「晴れ」が続いた。室生の谷は雪の気配はなか
った。寒さがぶりかえすと考えていた東大寺のお水取りが終われば、あきらめ
て帰ろうと考えていたのである。
  寒波接近の予報に、3月10日、土門たちは橋本屋に移り、雪を待った。
 雪を撮影する時は、牧は東京にいた。土門からしょっちゅう電話が入り、3
月10日橋本屋にきた。11日、今日帰ると決めていたが、もう1日のばすこ
とにした。その日は雪が降るというお水取りの日だったからである。
 12日、お水取りの日の朝、初代が玄関のカーテンをあけると、一面の雪景
色だった。従業員も土門が雪を待っていたことを知っており、皆泣いた。
初代は早く知らせねばと寝間着のまま二階の土門の部屋にかけ込んだ。「先生
雪が降りましたよ」というと、土門は降りましたかと起き上がり、助手に窓を
あけさせ、初代の手を握ってぽろぽろと涙を流した。土門が見たまだ薄暗い空
間には、横なぐりに雪が降っており、「ぼくの待っていた雪はさーっと一掃け、
掃いたような春の雪であった」(土門『女人高野室生寺』「あとがき」)。
  自分で身づくろいができず、毛利が着せるのだが、準備に時間がかかった。
初代は見ていてもどかしかった。玄関から送り出す時、土門はにこにこして、
雪に挑んでいく気迫が伝わってきたという。「予定していた撮影場所で約10
カット。土門さんの指示で毛利さんらがセットしたカメラのシャッターを40
回ほど切りおえたときは、すでに昼近く、あわ雪はいつしか消えかかっていた」
(「『カメラの鬼』に涙」『朝日新聞』大阪版、1978年3月14日)。

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 室生寺の雪景色は、奈良の写真を志す者であれば、誰もがあこがれる風景の
一つである。私もここの雪景色だけは押さえておきたかった。
 その日は、朝早くから薬師寺の塔の遠景を撮影していた。撮影を開始してし
ばらくしてからのこと、あたりが急に暗くなったと思ったら、すごい雪。
あっというまに一面銀世界へと変わった。
「奈良市内がこの雪なら、室生はかなりの雪にちがいない。」
絶好のチャンスとばかり、急遽、室生寺行きを決めた。
しかし、いざ室生寺に向かってみると、近づくにつれて除々に雪がなくなって
いく。そして室生に着いた時には完全に無くなっていた。みごとに予想が外れ
た。
ところがである。あきらめて帰りのバスに乗ろうとしていた、まさにその時、
雪がチラチラと降り始めたのである。一瞬、バスに乗るのを躊躇したものの、
「この様子なら、積もるまでには至らないだろう。それにこのバスに乗り遅れ
たら今度はいつになるか分からないし...」
と、そのままバスに乗ってしまった。これが大間違い。雪はどんどん激しくな
る。そして室生の山々を白く塗りつぶしていく。「しまった!」
バスはどんどん遠ざる。気持ちだけがあせる。
「戻ろう。これを逃したらもう二度とチャンスは来ない。」近鉄線室生口大野
駅に着くと同時に、近くにいたタクシーに飛び乗った。
「あんた、さっきバス停でバス待ってはったなあ...」
「雪ですよ。雪! 室生寺の雪は貴重なんですよ。」
タクシーは門前に到着。ドアが開くと同時に五重塔に走った。
既に雪のやんだ室生寺は恐ろしいほど静かで、私のカメラのシャッター音だけ
が境内に響き渡っていた。

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