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ヤマオダマキ
東北 大朝日岳山頂(1870.3m)
枯れた花に細かな種が付いていたそれを一つ頂いて
我が家の庭に蒔いた 4年後花をつけた
プロフィール
1939年生まれ 京都在住 男 サラリーマン卒業
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その1 「出来ていたことが・出来なくなる」 古希を過ぎると年々痛感する日々。201403
座右の銘「生死事大(ショウジジダイ)」(生死は絶対で、人間の一大事である、今、人として存在していることが最も大切でその大切さの意義を感じたい)自然と触れ合いアウトドアーを主体に過ごしている。平日のゴルフ場はシニアが多い、メンバーと囲むテーブル談義、ビールと昼食が楽しい。会話は他愛もない世相の愚痴、体調・老化・孫の話・医者と薬・お墓の話多義にわたる。アウトドアーを楽しみ、手軽でデジタル化されたカメラでシヤッターを押す。写真を主体に進化したパソコンとソフトを頼りにホームページを作り、操作と構成に悩み、脳に刺激を与える。自己満足のかたわら健康でありたいと・・・
その2 健康でありたい、誰でもそう願っている。201403
健康な体(肉体)に健全な心が宿るといいます。近年日本を問わず世界中(地球)で健全な心は失われている様に思います。自然環境の破壊、言葉と活字が飛び交うメディアと政治、多様化と謳われ誤解を招き不必要とも思われる情報と施設(人造物)の氾濫 、心と体のアンバランス、健康を維持できない、自分の体を動かさない、そのような環境は横着と無知を助長さす、自然と触れ合う「ゆとり」の機会が減少の一因ではないか・・・?
その3 「ゆとり」とは、“今”過去を振り返って・・・ 201403
ある時期「ゆとり」が取りはやされ、学校が5日制になったと記憶する。職場でも「ゆとり」の文言が良く聞かれひとり歩きした感がある。広辞苑によると、“余裕のあること” “窮屈でないこと” とある。その時代高度成長期で余裕もなかった、職場では窮屈であったように思う。まったく逆であったのではないか。やはり未来の余裕は実感し難い、過ごして来た日々を振り返り、瞬間の存在を実感する至福が「ゆとり」かどうか・・・