|

親 教師 人として
|
|
金髪で学校に登校してきた生徒を否定し、もとの髪の色に戻させようと、他の生徒とは
別の教室で授業を受けさせていた教師達がいました。
そうした自分達の言動によって、その生徒が登校拒否になるきっかけとなっても
まったく反省することはなく、「学校に金髪にして登校してきたので指導のためにやったこ
と」と、自分達のしたことを、あくまでも教育、指導と言い切っていました。
この教師達が生徒にしたことについて言っていたことは「学生が金髪にしていることは
いけないことだから、やめさせるため」と、うわべだけを答えるものしかなく
『なぜ自分は、学生が金髪にしてはいけないと考えるのか』
『なぜ自分は、もとの髪に戻させるために隔離して授業を受けさせたのか』
という理由を答える内容は、まったくありませんでした。
それは、金髪が問題と考える自分のこと、そして、その生徒を正そうとする自分のことを
何も理解しておらず、考えられていないということです。
そのことは、自分自身がその生徒に教育しようと考え、行動していくために
必要なことであり、自分が現実に生徒に起こした行動の理由になるものです。
理解し、考えられているなら、そのことを答えているはずです。
この人達のやっていることは、相手が学生と見れば、自分達の中にある「世間 他者」
に認められる学生という存在を見、その存在でなければ学生として認められない否定の
存在と考え、その人自身の存在を否定し、失わせ、「世間 他者」に認められる学生という
存在でしかないようにしようとすることを、初めからその相手の存在が考えの中にないま
ま行動しています。
さらに他の生徒に対して、認められる学生という存在でなければ認められず否定される
ということを、はっきり示そうとしているだけです。
こうした中に何一つ生徒がこれから生きていくために必要な知識を伝えているものは
ありません。
それどころか、つぶすことをしています。
学生が金髪だから否定されても仕方がないという理由はありません。
人を、どこからかもってきた一つの存在に押し込め、その存在でなければ、または
その存在だから、否定されても仕方がないという考えは、差別と同じ考えです。
そのようなことは、教育の場でもどんな場でもあってはいけないことです。
しかし、そのようなことをしていても、自分のやっていることを教育と信じている人がいます
。
そうなってしまうのは、現実に存在しているあるがままの自分自身を親に受け止められ
たことがなく、認められない存在なら教育、しつけと称して、その時の自分の存在を否定さ
れ、認められる存在に押し込められてきたためです。
そのために、そのような言動を教育と信じ、相手の存在を否定する言動を起こしても
何の罪悪感もなく簡単にできてしまうのです。
そのことによって人が傷ついていると知ることはできても、自分は正しいと信じます。
間違ったことはしていないと信じています。
その言動がいき過ぎたものと、問題として取り上げられても
それは教育、指導がいき過ぎたものと、本気で信じています。
なぜなら、それが人の教育と信じているからであり、「自分のこと」「相手のこと」が考え
の中に出てくることがないからです。
このような人が正しい教育を受ける必要のある人です。
生徒が学校から帰り、髪を金髪に染め、そして次に日、そのまま学校に登校してきたか
らといって、生徒と教師という社会は何も変わりません。
もし、学校でその人が教師と向かい合っても社会を理解していない行動を起こしている
なら、その人が学ぶ必要がある社会を伝えることが教育です。
もし、オシャレと思ってのことなら、ファッションなどについて理解していなければ
「国語を教えられる」「英語を教えられる」というだけの大人が、その人自身と向き合えるこ
とはできません。何を伝えられることがあるのでしょうか。
もし、外部への反発の表れなら、その人は人への不信を持っています。
そのことを理解しなければ、何も伝えられるものはなく、正すことはできません。
|
|
|

|