まだ明けきれていない時刻で、街は大半が夢の中。
持っていたゴミを指定場所に置いてから、は、どんより雲を見上げた。
灰色の雲からは、今にも透明な雫がこぼれて来そうだった。


(今日も雨かしらね)



生温く湿った風を肌に受けつつ、頬に掛かった髪を払う。
ふと、先日の出来事が脳裏に蘇った。
恒例となってきた昼食の時間の時。
中庭にある紫陽花が綺麗に咲いているから見に行こうという親友の誘いに、面倒だと一刀両断した跡部。

別に中庭ぐらい付き合ってあげれば良いのに、と。
その時は、無愛想な跡部に腹が立った。

けれど、見てしまったのだ。
その日の放課後。
紫や青色に色付いた紫陽花の前に、跡部と親友のの姿を。


の物らしき赤い傘に身を寄せ合って、小雨に打たれる紫陽花を眺めていた二人。
綺麗に開いた紫陽花を眺めるの隣で、屈託のない笑顔を浮かべている彼女を見つめる跡部の横顔。
あの時の跡部の表情は、一生忘れることがないと思う。


(あれは、人生の中で驚きランキングベスト10には入るわ。うん) 


初めて見たあの柔らかい表情。
が振り向いた途端に消えた笑みを思い出すだけで笑いが漏れる。
親しかった訳ではないから、以前の跡部なんて上辺しか知らない。   
けれど、彼女が来てから彼は確実に表情が豊かになった、と思う。
中学生らしい無邪気な顔もそのうち見れるかもしれない。



(……実に見物だわ)



思わず口元にニヤリと質の悪い笑みが浮かんでしまう。
これから学校が楽しみだ。
一時間後には、その楽しみが味わえると思うと嬉しい。
想像するだけで、ワクワクしてきた朝は、



「何かええことでもあったん?」




―――実に短い命だった。












++++ 体感温度 1












 
できれば聞きたくなかった陽気な声にしかめっ面を隠そうともせず、振り向いた。
案の定、そこいたのは忍足侑士。
にこにこと腹の見えない笑みを浮かべて、こちらへやって来た。


「おはよーさん。今日も雨降りそやなぁ」
「……」


は、冷たい一瞥を向け、さっさと店へと戻る。
実はは年齢を偽って、コンビニで早朝バイトしているのである。
これを知っているのは、学校では親友のだけだったのだが……。


「今日も挨拶してくれへんの? 寂しいなぁ」


「愛しの彼氏やのに」などと戯言をのたまう忍足を無視し、商品棚を整理して回る。
そのの後を忍足が、てくてくとついて来る。
ついさっき客足のピークが収まってしまっているから、店内には忍足と常連のお婆さんしかいない。
忙しさを理由に、この状況から抜け出せない。
心の中で舌打ちしているの心情を知っているくせに、忍足はそ知らぬ顔で訊ねた。 


「なぁ。今日こそ帰り一緒に帰らへん?」
「……」
「あ、無視はアカンでー。俺、やねんから」


わざと強調する忍足に、こめかみに青筋を浮かべながら、にっこりと営業スマイルで答える。


「予定いっぱいで無理です。それより、お客さま? 何をお探しでしょうか?」
「かわいらしい店員さん」
「生憎当店には、お客様のご希望に添える者はおりません。お引取りください」
「何言うてんの。おるやん。目の前に」
「…買う気ないなら、帰れ」


忍足の軽口に、の堪忍袋の尾が切れかかる。
が冬の外気より寒々としたブリザードを振りまいて睨むのにも関わらず、
忍足は彼女の言う「腹の見えない笑顔」を返す。


「買う気なら、めっちゃあるで。こいつらとから揚げくん一袋、ヨロシクな。


忍足は、オニギリ三つとパン二つをに渡した。


(……いつの間にっ!)


悔しそうに眉間の皺を増やしたを見て、忍足はこっそりと笑った。
 




「アリガトウゴザイマシタ」
「うわっ! 何ソレ? めっちゃ棒読みやんっ! 愛がないで愛が〜」
「……さっさと帰らないと冷凍室に放り込むわよ」
「そら嫌や。んじゃ、また学校でな〜」


ひらひらと手を振ってる忍足をはキレイに無視する。

そうだ。
今は終わったが、この後また学校でこうした遣り取りがあるのだ。
気を遣っているのか判らないが、レギュラー陣ももいない、二人きりの時に。
だからといって、笑って流せるほど自分は寛大ではないのだが。


さっきまでの楽しい気分を返してほしい。
一変に学校に行くのが億劫になった。

はぁ…、と長いため息をついてると、食品棚にいたお婆さんが来た。
にこにこと人懐っこい笑みを浮かべると、


「仲がいいねぇ」


実に嬉しくない言葉を言ってくれた。






****





  
「オッシー、何かした?」


の述語の抜けた問い掛け。
その場にいたメンバーはハテナマークを浮かべるが、忍足には通じたらしい。
苦笑をもらした。


「やっぱ怒っとる?」
「うん。すごく。……何したの?」
「今朝、一緒に帰るお誘いしただけやねんけどな〜」


さらりと言った忍足の言葉に、元レギュラー陣が驚いた。

帰りを誘いたい相手が出来てたのか! いつの間に!!
即座に問質したいが、何やらが真剣な表情である。沸き立つ感情を抑えつつ、彼らの会話を見守った。



「また行ったの?」
「おう」


笑顔の忍足とは対照には困った表情を浮かべる。


「あんまり遊ばないでね」
「遊んでへんよ。マジやて」
「……本当に好きなの?」
「三年ぐらい前からな」
「そんなに前から? 知り合いだったの?」
「まぁそうなるねんけど……向こうは知らんも同然かもな」
「……」


は、じっと探るように忍足の目を見つめた。
しばしの沈黙の後、は静かに言った。


「泣かせたら、海に沈めるからね」
「肝に命じとくわ」
「うん」
「…お前の細腕でコイツが放り込めるのかよ」


誰のことを言ってるのか気づき、の隣にいた跡部が口をはさむ。
蚊帳の外だったのが不満だったらしい。仏頂面だ。


「樺地くんにお願いするから、大丈夫」
 

は至って真面目な顔で、跡部の背後に控える樺地を見上げる。
  

「その時は、しっかりお願いね。樺地くん」
「……ウ、ウス」


の真剣で物騒な願いに戸惑いつつも、樺地は素直に頷く。
時々、彼女がどこまで本気か判らないと思う跡部達だった。



「で、誰のことだよ?」
「何だ、まだ判らねぇのかよ? 相変わらず鳥頭だな」
「判る方がオカシイっつーの! で、誰のことなんだよー。侑士!」


向日は興味津々でパートナーのブレザーを引っ張った。
ちなみに彼らが今集まっている場所は、屋上である。
もう恒例になっている昼食の場に現われるなりが先程の質問を投げたのだ。


「俺のめっちゃ好きな相手のこと」
「だから、誰のことだって!! この学校なのかよ? 俺知ってるヤツ? なぁなぁ!」


忍足は、にやりと口の端を上げて笑った。


「さぁ〜て。ソレは言えへんなぁ」
「何でだよっ! 教えろってば」
「せやなぁ……まだ、秘密っちゅーことで」
「あっ! オイ侑士!!」


負けじと向日は、はぐらかすパートナーに詰め寄るが、忍足はさっさと教室へ戻って行った。
後を追いかけた向日の食べかけの弁当箱を見下ろし、宍戸が息をついた。


「ったくあの馬鹿…。片付けてから行けよな」
「良いよ宍戸。あたしが持っていくから」


悪態をつきつつも、片付けようと手を伸ばす宍戸にが制止を掛けた。
中断させてしまったのは自分だ。
あとでお腹をすかせるに違いないから、何か向日に差し入れしよう。

は鉄柵に背を預けて座っている跡部に振り返った。


「ガックン、何が好きかな」 
「は?」
「ガックンの好きな食べ物。跡部、知らない?」
「……知る訳ねぇだろ」


突いて出た言葉はそっけなくて、判っていても胸に渦巻く幼稚じみた感情を抑えられない。
自分の胸中など知らず、考え込む彼女を横目にこっそりと息をついた。


 
「ヤキモチで八つ当たりは格好悪いよ?」


むくりと唐突に身体を起こしたジローに驚くより、欠伸交じりの言葉に頬が引き攣った。


「ジロー寝言は寝てから言え」
「えー、でも怒るのは図星だからだよ」

 
マイペースに地雷を踏むジローの後頭部に跡部の拳骨が落ちた。
 

「いたー! 跡部! 暴力反対」
「うるせぇ! 大体てめぇは、いつもいつも寝過ぎなんだよっ」


飯の時ぐらい起きやがれ! と怒鳴る跡部を無視し、くすくすと笑っているに視線を移した。


「ねー、。忍足の言ってた『めっちゃ好きな相手』ってさ〜。ひょっとしてコンビニでバイトしてる?」 
「―――えっ!?」 


ジローの言葉に、は目を剥いた。
「コイツ、いつから起きてたんだ…」などという疑問も浮かぶが、それよりジローが投げた言葉の方が気になる。


「バイトって、年上じゃねぇか?!」
「やりますね。忍足先輩」
「……ウス」
「ん〜、違うよ。同い年。俺とクラス一緒」
「「え?!」」


さらに衝撃を受ける宍戸と長太郎。
ジローは、愕然としてるを再び見た。


「違う? 学校では髪くくってるし、メガネ掛けてるからわかんなかったけど、合ってるよね?」
「……う、うん」
「あ。やっぱり。でも女の子って、髪型ひとつで変わるんだねぇ」
 

すごいね〜、と再び夢の世界に入っていきそうなジローをは慌てて揺さぶった。


「ジロちゃん、待って寝ないで。ねぇ、どうして知ってるの?」
「んー、俺が一年の頃に一度逢ったことがあるんだよ。この前紹介されるまで、俺は気づかなかったけど。
……あとは、本人達に聞いて〜。俺、ねむい……」


ジローは、そこまで言って、ぱったりと眠ってしまった。
忍足もを以前から知っているようだった。


気になる。
非常に気になる。


  
「よし」 


しばらくして、は頷いた。
様々な憶測を口にする宍戸と長太郎は目に入ってないらしい。
てくてくと戸口に向かうに跡部が声をかける。


「もう昼休み終わるぜ?」
「判ってる。でも、気になるから。…多分今日遅くなるよ?」
「……早くしろ」
「じゃ、頑張ってみる」
  

行ってきます、と言っては屋上を後にした。
向かう先は、非常に機嫌の悪く、授業をサボるはずの親友の元。
  
 




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