挨拶(ライブ配信)
先日、駐車場の草刈りをしました。一年分の草刈りだったので刈った雑草が山積みになりました。でもよく考えると、私たちが吸う酸素って、全部、植物が造っているんですよね。自然の力ってすごいなって思いました。
それでは、天地を造られた神さまを礼拝しましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・教会員の方々の健康が守れますように。
・子供たちが事件事故等から守られますように。
・政治が安定しますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(神からの誉れ)
箴言 25章 1~7a節
ヘブル 13章 1~ 8節
ルカ 14章 7~14節
江利口 功 牧師
おはようございます。
イエスさまは、こう言われました。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。・・・」「むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。・・・」
これはどういうことでしょうか? まず、イエスさまは「謙遜でありなさい」と教えておられます。そして、もう一つ、そのように「謙遜に歩む人を神さまは喜ばれ、その人を高く上げてくださる」そのことを教えてくださっています。
「上席につかず、末席に行って座りなさい」というのは、恐らく、女性の方には、あまり実感がわかないのではないでしょうか?結構、日常的に、末席に座って給仕することに慣れておられるからです。むしろ、男性の方が、このイエスさまの言葉は、腑に落ちるのではないでしょうか?
今日の話ですが、イエスさまは、ある時に、食事に招待されました。その時、同じように招待を受けた人達が、どこに座ろうかと迷いながら、できるだけ上席を選んで座ろうとしていました。恐らく、そこには、名の知れた人達が集まっていたと思われます。
招かれた人は、食卓全体を見て、自分が座る場所を選んでいました。できれば、招待した主人の近くに座りたいと誰もが思ったはずです。主人の側に座る人は目立ちますし、それは、名誉だからです。反対に、主人から遠い所、端の席は、目立たず、誰も好みませんでした。
イエスさまは、招かれた人たちが、互いの顔を気にしながら、自分の立場を考え、少しでも、主人に近い方を選んでいく様子をじっと見ておられたのです。
その彼らに、イエスさまは、先ほどの言葉をおっしゃったのです。
「「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」
これは、誰だってわかることですよね。主人から、もっと上に是非座ってくださいって勧められるのはとても名誉なことです。イエスさまは、上席に座っていて、席を譲るように言われた人は恥を見るとも言われましたが、ここで、イエスさまが、伝えたいことは、“上げられることの喜び”です。それは、他の人達から羨望の眼差しを受けるだけではなく、「どうして、そんなところに座っているのですか?さあ、さあ、こちらに座ってください」と招いていくださる主人の笑顔を見ることができるからです。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」
これは、ヤコブの手紙(4章6節)の言葉ですが、このことは、神さまが、聖書全体を通して、繰り返し教えてくださっている真理です。
イエスさまの譬えの中に、神殿で祈る、ファリサイ派の人と徴税人の話があります。ファリサイ派の人は、自分が一生懸命、律法を守っていることを誇り、自分こそが神さまに近いと自負し、自分の義しさ祈っています。しかし、徴税人は、自分は罪人であると深く自覚し、神から遠い存在だと感じて、目を上げず、胸を打ちながら「主よ憐れんでください」と祈っていました。
イエスさまは、この二人についてこう言っておられます。「義とされて、家に帰ったのは、ファリサイ派の人ではなく、徴税人の方なんです」。イエスさまは、そうおっしゃったのでした。
イザヤ書(57章15節)にこう書いてあります。
『高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。』
神さまは、悔いる心、謙る心を喜ばれ、そのような者と共におられ、その人に新しい命を与えてくださるのです。
子供って「誰に褒められたいか」って言えば、やっぱり親だと思います。親から褒められると一番嬉しいと思います。学校で書いた絵でも、親が褒めてくれると嬉しいですよね。褒めるのが苦手な親もいますが、やはり、子供が聞きたいのは、「すごい」とか「上手くかけたね」という言葉だと思います。私自身のことを振り返っても、運動会で徒競走をして一番になった時に、みんなに凄いって思われるのも嬉しいですが、親に評価してもらえることがやはり嬉しかったと思います。
人からの誉れは、それはそれで嬉しいことで、それが励みになることはあります。でも、人が求めているのは、親や先生、また、尊敬している人や愛している人から褒められることではないかと思います。
ですので、今日のこの聖書箇所で心に留めたいのは、「謙遜でありなさい」というイエスさまの言葉、それ以上に、「謙遜に歩む人を“神さまが”喜んでくださる。そして、その人を“神さまが”高く上げてくださいます」というところだと思います。
人々に謙遜を教えられたイエスさまご自身は、どうだったでしょうか?私たちは知っていますよね。イエスさまは、天の御座におられましたが、その場所を捨てて人となられました。しかも、お生まれになったのは、家畜小屋で、生まれたばかりの時に寝かされたのは飼い葉桶でした。宮殿でも神殿でもなく、普通の人が寝る寝床でもなく、最も低い場所に身を置かれたのです。
そして、イエスさまは最後、十字架にかけられました。とうてい、神さまとは思えないお姿になって死んで行ってくださったのです。十字架刑は、もっとも「さげすまれ」、「みじめ」な姿でした。多くの人が目を背けたほどです。イエスさまは、神さまなのに、私たちを救うために、そのような姿にまで、謙ってくださり、死んでくださったのです。
そして、イエスさまは、墓に葬られました。もし、天使達が救いの計画を知らなかったなら、天使たちはその姿を見て驚いたと思います。神さまがそこまで自らを捨て謙って、低くなって行かれたからです。
フィリピの信徒への手紙(2章9節)にはこう書いてあります。
『このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。』
イエスさまは、神からの誉れをお受け取りになられたのです。復活です。そして、そのイエスさまのおかげで、私たちは永遠の命を頂くことができたのです。イエスさまは、誰もが勝ち取れなかったものを勝ち取られたのです。
そのイエスさまが、「謙りなさい。そうすれば、神があなたを引き上げてくださいますよ」と教えてくださっているのです。
人は誰でも「人に認められたい」と思いますし、「すごい」って思われたいと思います。「できる人になる」ということは、向上心という点ではとても大事なことです。聖書でも、勝利を目指して戦う人の姿が描かれています。でも、大事なのは、頂点に立つ人となった時に、高慢にならず(誤解せず)、むしろ、イエスさまのように謙って、人の中に入っていくことです。そして、人を助けていくことです。そのようにする人を神さまは喜ばれ、その人を高くあげられます。
この世の栄華は永遠ではありません。美しい人でも老いていきます。強い人でも、年と共に体力がなくなっていきます。賢い人でもぼけてきます。でも、そのようになっても輝いている人っているかと思います。そのような人って、やはり、上から目線ではなくて、謙遜な人ではないかなって思います。
でも、忘れてはいけないのは、「私たちが一番求めるべきもの」は、神さまからの誉れです。
イエスさまは、『上席についてはいけません』とおっしゃった後に、さらにこう続けておられます。
『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。』
また、イエスさまは「天に富を積みなさい」とも言われました。これは、「もっとたくさん良い事をして“人に喜んでもらいなさい(人から誉め言葉をもらいなさい”」という意味ではありません。イエスさまは別の箇所でこうもいっておられます。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
(マタイ6章1~4)
牧師をしていると分かるのですが、教会では、隠れたところで、奉仕や献金など教会を支えてくださっている方多いんです。特別に献金してくださる時には、公表することもありますが、内緒で献金してくださろうとしていること多いです。でも、間違わないでください。「皆さんも献金してください」ということを言っているのではありません(笑)。そうではなくて、神さまは、その人の「隠れたことを見ておられる」そして「報いてくださる」ということなんです。人からの誉れよりも、「よくやった、忠実なしもべよ」という神さまからの誉れを喜ぶ人となって欲しいんです。
最後になりますが、今日のポイントをお伝えして終わりたいと思います。今日のポイントは、神さまからの誉れこそ私の喜び、そのような人となって欲しいということです。
「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」
イエスさまのこの言葉を大事にしましょう。
イエスさまの言葉を良くみると、主人は上席から、その人を呼ぶのではなく、わざわざ“近くに来て”「さあ、もっと上席に進んでください」って勧めてくださるっているんです。どれだけ、その人を友として喜んでくださっているのか(親しげに語ってくださっているのか)を、イエスさまは表現されようとしているのかがわかります。
確かに、謙遜に生きる人は、人から賞賛されること多いと思います。それは、素晴らしいことです。でも、もっと大きな、もっと確かな誉れがあります。それは、神さまから頂く誉れです。
神さまは、誰も見ていないところでの小さな奉仕を見逃されることはありません。誰の目にも留まらない奉仕を神さまは喜ばれます。また、自分を犠牲にして人生を歩む人も神さまは喜ばれます。
人から低くされることを恐れず、そのような時には喜びとし、人の前で謙ることを恥じないで、それを見ておられる神さまを感じて歩んで行きましょう。神さまの誉れこそ、真の喜びです。
この後聖餐式をいたします。この聖餐式の主人は、イエスさまです。謙り、死に至るまで謙られた方が、私達のために、食事を準備してくださいました。わたしたちも、謙遜にそれをいただきましょう。それ以上に、末席に座ろうとする愛の神さまを感じましょう。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
↓ボタンをクリックしていただいても【WEBライブ配信】に繋がります。
使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください