10月12日 聖霊降後第18主日

挨拶(ライブ配信)

 

 自民党の総裁に高市早苗姉が選ばれました。この流れで総理大臣なれば日本が変わるかもしれませんね。今日は、瀬戸幸治牧師による説教です。

 

それでは、礼拝の時をお持ちましょう。

前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック

前奏

今週のお祈り


教会員の方々の健康が守れますように。
総裁に選ばれた高市氏が良い政治を行ってくださるように。
・世界の戦争が早く終結しますように。

讃美

戒め・罪の告白・恵みのことば

愛の戒めを朗読しましょう
 心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。

み言葉を朗読しましょう
 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。

罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
 全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。

以下のことばを朗読してください
 一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン

みことば(本当の喜びに至る人)

2025年 10月12日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝
ルカ   17章 11~19節
 瀬戸 幸治 牧師

●「ありがとう」を言える子どもに。
 これまで教会学校や幼稚園で、色んな子どもたちと出会ってきました。
時々、子どもにお菓子をあげたりしていたのですが、お菓子をもらって「ありがとう」と言う子と、言わない子がいます。中には、差し出したお菓子をひったくるようにして持っていく子もいます。

もちろん、「ありがとう」と言わせるためにお菓子をあげるのではありません。喜んでくれたらいいなあと思って差し出しているだけです。けれども、やはり「ありがとう」が帰ってこないと、その子と何の関りも生まれなかった気がして、少し残念な思いをします。
親が近くにいると、「ありがとう」を言わない子どもを見て、「なんていうの?」と躾をします。何かを受け取ったら「ありがとう」の気持ちを言葉にして返すのは、礼儀であり、また当然のことだからです。
ですから、親は自分の子どもには「ありがとう」と言う子になって欲しいと願っていると思います。もっと言えば、受けたことに対して感謝(応答)できる心を持つ子どもに成長してほしいと願っていると思います。受けたことへの感謝(応答)は、人とつながり・関係性を築いていく上で、とても大事なことだからです。
これは、神さまとの関係においても同じではないでしょうか。

今日の話は、平たく言うと、イエスさまに「ありがとう」を言えた人と、言えなかった人の話、ということができるかと思います。神さまは、イエスさまがしてくださることに「ありがとう」を言える人、感謝(応答)できる人になって欲しいと願っておられます。
もちろん、神さまが望んでおられるのは、単に「ありがとう」と言える礼儀正しい人ではありません。神さまは、感謝(応答)を通してご自身との関係の中に生きる人になって欲しいと願っておられるのです。

重い皮膚病を患った十人(九人と一人)の姿は、「あなたはどっちの生き方をしていますか?」と、わたしたちに問いかけているように思うのです。

●同じ体験をしても行動に違いが出る。
 今日の話を振り返りますと、エルサレムに向かう旅の途中で、イエスさまはある村に入られました。すると、重い皮膚病を患っている十人の人々と出会ったのです。彼らは、遠くの方に立ち止まったまま、大きな声を上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言いました。
当時この病気は、感染すると考えられていました。また、宗教的に「汚れた者」とも見なされていました。だから、両方の意味で、共同体の中で他の人々と一緒に生活できませんでした。

聖書にはこう書かれています。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ13:45,46)

十人は、自分たちではどうにもできない、とても厳しい状況に置かれていたことがわかります。その彼らの叫びをイエスさまは聞かれました。そして、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。
先ほども言いましたが、この病気は宗教的な「汚れ」とも考えられていました。だから、清くなったかどうかを判断するのは、医者ではなくて祭司なのです。十人は、祭司から清めの儀式をうけるために、イエスさまの言葉を受けて、エルサレム神殿の祭司の所へ向かったと思われます。そして、その途中で重い皮膚病は清くされたのです。

十人全員がイエスさまによって清くされました(儀式的に不浄となる病気を治してもらいました)。しかし、イエスさまに感謝するために、イエスさまの所に戻って来たのは一人だけだったのです。
おそらく他の9人は、そのままエルサレム神殿の祭司のところに向かったのだと思います。一人のサマリア人だけが、エルサレムに行く途中でイエスさまのもとに戻ってきました。そして、イエスさまの両足のかたわらに顔を地面につけてひれ伏して感謝したのです。

十人は全員同じ体験をしました。でも、その後の行動に違いが生まれているのです。
イエスさまのしてくださったことに「ありがとう」と言う人と、言わない人に分かれたのです。イエスさまがしてくださったことに応答した人と、しない人に分かれたのです。
この違いはどこから来るのでしょうか。どうしてサマリア人の彼だけは、イエスさまのもとに戻ったのでしょうか。

●イエスさまのいやしの出来事として受け取る
 そのヒントは15節にあります。
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」とあります。イエスさまのところに戻ったのは「自分がいやされたのを知った」からなのです。
実は元の聖書には「知る」とは書かれていなくて、本来は「見る」と訳される言葉が使われています。「見る」というのは、もちろん目で見るのですが、それだけではなくて「出来事を経験・体験する」「目撃する」「精神的・霊的に洞察する」という意味を持っている言葉なのです。つまり、彼は自分の身に起こったことを肉眼で捕らえながらも、霊的な出来事として体験した、霊的に見た、ということなのです。

そして、何を見たのかと言いますと、自分が「いやされた」ことでした。
 もう一度15節をみていただくと、「自分がいやされたのを知って」となっています。
「自分が清められたのを知って」とは書かれていないのです。彼は「清くされた(治った)」だけではなくて、「いやされた」出来事として受け止めているのです。
「清め」と「いやし」の何が違うのかと思われるかもしれません。「いやされた」と言うギリシャ語の言葉には、「身体的疾患から人を健康に回復させる」という意味ですが、それだけではなくて、「身体的疾患を超えた様々な病や状態から解放する(罪からの解放)」、「霊的回復(救い)」という深い意味があります。

聖書にはこう書かれています。
「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(ペトロの手紙一2:24)

罪は、人間を神から切り離す「死の病」です。イエスさまの十字架の傷によって、わたしたちはこの病からいやされ(罪赦され)、神との交わりを回復していただきました。
つまり、「いやし」は、身体の健康の回復だけではなくて、神との関係が回復したことを意味しているのです。
「自分がいやされたのを知って」というのは、自分の皮膚病が治った出来事を、霊的に洞察し、病だけではなく罪から解放され、神との関係が回復されたことが分かったということなのです。

どうして、彼だけがイエスさまの元に戻ったのか。その答えは、自分の身に起こったイエスさまの出来事を「主の驚くべき御業」の体験として受け取ったからなのです。

受け取ると、そこにはおのずと感謝(信仰による応答)が生まれて来ます。自分の身に起こることを、神さまの恵みとして受け取っていく時に、わたしたちは信仰の目が開かれ、感謝が生まれ、キリストのもとに戻り、キリストとの関係に生きる者とされるのです。

清くされたのは十人でした。全員喜んだはずです。しかし、いやし(神との関係の回復=救い)を受け取り、神を賛美し、感謝があふれた人は一人だけだったのです。

●本当の喜びに至る
 昨年の11月に娘の病気がわかりました。妻からの電話で大ごとだということはすぐにわかりました。そして、どんなことをしても娘の健康を取り戻そうと思いました。
でも、わたしの心にあった願いは、健康の回復もさることながら、それ以上に、このことを通して、娘と主なる神さまとの関係が深くなって欲しい、娘の中でイエスさまの存在が大きくなって欲しい、ということでした。
娘の身体に起こったことは、晴天の霹靂のような出来事でした。でも、そのことを通して、神さまが何を与えようとしてくださっているのか、そこに霊的な目を向けて欲しいと思ったのです。そして、わたし自身もそうありたいと祈ってきた一年でした。

体がいやされることは大切なことです。この世での祝福だと思います。わたしたちは、それぞれの人生の中でいやしを必要とすることがたくさんあります。病気になったり、人間関係がこわれてしまったり、仕事を失ったり、経済的に困窮したり、いろんなことを経験します。そして、そこから回復されることも経験します。それらもすべて神さまからの恵みだと思います。
けれども、この世の問題からの回復だけで終わってしまうなら、いやしは、神さまの出来事にはならず、一時的な助けにとどまってしまうのではないでしょうか。

しかし、今日のサマリア人は、イエスさまのいやしを通して神が与えようとしている本当の恵みに気づいたのです。自分の身に起こったことを霊的にとらえ、永遠に変わらない神との関係の回復を受け取ったのです。そのいやしは、イエスさまからしか、いただくことはできないのです。人間の祭司からは、いただくことのできないいやしなのです。
だから、彼はイエスさまのもとに戻り、イエスさまとの関係に生きる者(=本当の喜びに至る人)となったのです。本当の喜びとは、問題が解決する喜びではなく、イエスさまに出会い、神との関係が回復された喜びです。
 
そして、今日のサマリア人の姿は、わたしたち礼拝者の先取りの姿でもあるのです。
この礼拝で、わたしたちはサマリア人と同じ喜びに与っているのです。

礼拝の中で起こっていることを思い出して欲しいのです。
十人の重い皮膚病を患った人々は、汚れのためにイエスに近づけず、遠くから憐れみを求めることしかできませんでした。
わたしたちも、罪という汚れを神さまの憐みにより頼むしかなくて、キリエ・エレイソン「主よ、憐れみたまえ」と叫んでいるではないですか。

憐みを求める皮膚病の人たちの叫びに、イエスさまは応えてくださり、祭司の所へ行って体を見せなさい、つまり、もう治ったと宣言をされました。
わたしたちも、イエスさまの身代わりの死によって、すべての罪は赦され、神の子とされた、神さまとの関係は回復したと、罪の赦しが宣言されます。

神との関係の回復(いやし)を受け取ったサマリア人には賛美が生まれ、感謝の応答が起こりました。
神との関係の回復(いやし)を受け取ったわたしたちにも「グロリヤ:栄光、神にあれ」と賛美と感謝が生まれてくるのです。

わたしたちも、この礼拝でいやしをうけていることに気づかされます。この礼拝で、イエスさまから、あのサマリア人が受けたものと同じものが差し出されているのです。
それを霊的に信仰の手で受け取る時に、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」というイエスさまの祝福が聞こえてくるのではないでしょうか。

イエスさまに「ありがとう」と言えるか、言えないか。つまり、イエスさまとの関係に生きることができるか、できないか。その違いは、イエスさまが差し出してくださっている「恵み(罪の赦し、新しい命)」を霊的に受け取っているか、いないかの違いなのです。 
今日もイエスさまは、わたしたちが必要とするいやしを差し出しておられます。 
ぜひ、信仰の手で受け取っていただきたいのです。

十人のうち、イエスさまのもとに戻ったのは、たった一人でした。
彼は「いやされた」という出来事の中に、神さまの御業を見ました。ただ病気が治ったことを喜んだのではありませんでした。自分の中に、神さまとの関係がもう一度結ばれた、そのことを見たのです。
わたしたちも、この世の歩みの中で、いろいろないやしを必要としています。
病気のいやし、心のいやし、人との関係のいやし、生活の中でのいやし。そのどれもが大切です。けれども、イエスさまがくださる「いやし」は、それだけにとどまりません。
イエスさまは、いやしを必要とする方の痛みの中で出会ってくださいます。そのことを通して、その人をご自分のもとへと引き寄せてくださいます。そして、イエスさまの恵みを受け取り、感謝(応答)するとき、本当の喜びに至る者としてくださるのです。

礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条

使徒信条によって信仰を告白します

 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。

讃美

主の祈り

イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう

 天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

頌栄

最後に

 

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。

最後にお祈りをして礼拝を閉じてください