挨拶(ライブ配信)
梅雨が明けたみたいです。これから暑い日が続きそうですね。皆さま、健康にはご注意ください。
それでは、礼拝しましょう。
前奏をお聞きください(ライブ配信は↓のボタンをクリック)
前奏
今週のお祈り
・教会員の方々の健康が守れますように。
・暑さに負けないように。
・世界が平和でありますように。
讃美
戒め・罪の告白・恵みのことば
愛の戒めを朗読しましょう
心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛しなさい。これが、いちばん大切な第一の戒めです。第二もこれと同様です。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
み言葉を朗読しましょう
自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
(ヨハネの手紙1 1章8~9節)。
罪の告白と憐みを願います。以下を朗読してください
全能の父なる神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いによって多くの罪を犯しました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない憐みにより頼みます。憐み深い神よ。み子イエス・キリストのゆえに、すべての罪を赦してください。聖霊によって、主と主のみ旨についてのまことの知識を与え、また、主のみ言葉への従順な心を私たちに与えてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
以下のことばを朗読してください
一人の御子、イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された、憐み深い神は、罪を悔い、御子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださいます。アーメン
みことば(着いて行く信仰)
列王記上 19章 14~21節
ガラテヤ 5章 1、16~25節
ルカ 9章 51~62節
牧師 江利口 功
おはようございます。日曜日が来ました。一週間が過ぎるのは、本当に早いですね(そう感じませんか? )
朝起きて、ご飯を食べて・・・働いておられる方は職場へ向かい、家で家事や用事をされる方は、それぞれの用事が始まる。そんな一日の始まりが毎日繰り返されます。そして、夜になると、忙しさから解放されて、ほっと一息つきますが、また明日のために床に就く・・・それが多くの方の毎日ではないでしょうか。
繰り返される毎日・・・「先週も同じ、去年も同じ・・・」そんな風に感じることもあります。でも、同じ毎日に見えて、実は何かが少しずつ進んでいるのです。そのような静かな変化を私たちは体験していると思います。たとえば、庭木の成長、季節の移り変わり、子育てをしている人であれば、毎日が大変であっても、そこに子供が成長していく姿を見ることができると思います。子育てをしていない方でも、お孫さんや周りの子供達の変化を目にすると、毎日が同じようであっても、そこに喜びってあると思います。これが、本当に毎日が同じで、何も変わらないとなると、生きる喜びってありませんよね。
確かに、周りの「成長」を見て嬉しくなりますが、一方で、自分の「老い」も気になるのではないでしょうか。若い頃は「成長」という言葉を使いますが、年を重ねてくるとそれが「老い」になってしまいます。
でも、神さまがご自身に似せて造ってくださった私たちは、消えて行くような存在ではありません。一見すると私たちには「老い」というものに支配されているようですが、霊的にはちゃんと右肩上がりに成長しているんです。パウロの言葉にこうあります。『たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。』(Ⅱコリント4:16)。
私たちの内には、神さまの恵みが働いて霊的な変化が生じているんですね。神を信じる人の内には聖霊が働き、私たちは霊的に成長し、聖なるものへと変えられていくんです。私たちは、そのプロセスの中に生かされているんです。
神さまは天地を創造されました。この世界は、混乱や悲しみに満ちているように見えます。でも、だからと言って、神さまがこの世界を任せっきりにしておられるのでも、放っておかれているのでもはありません。神さまは今もこの世界を変えておられます。
私たちは、主の祈りで「み国が来ますように」と祈りをささげますが、これは、未来にやってくる神さまの素晴らしい永遠の世界のことだけを願っているのではありません。この瞬間・瞬間においても、神さまの栄光があらわれ、全ての人が愛に生きることによってこの世界が愛と平和に満ちた世界になるようにと願っているわけです。
もちろん、大きくは神さまのみ業です。でも私たちも神の民として、この世界を変えて行く一員となっています。愛と平和に満ちた世界になるように、私たちも祈り、良い技に励むのです。
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙でこう言っています(今日お読みした聖書箇所です)。
『わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』
このことばを聞くと、すごく励みになるのですが、でも、次に続く言葉はグサッときます。
『肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。』
パウロが言う肉の業・・・どの一つにも私には該当しないと言える人はいないと思います。むしろ、そのような自分に苦しんでいるのではないかと思います。でも、先ほどのパウロの言葉を振り返ると、パウロはこう言っているんですね。『わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』
パウロは、“霊の導きに従って歩みなさい”って言っているんですね。私たちには霊の導きが必要なんですね。神さまは必要な時にみ言葉を色々な形で私たちにお語りになります。朝開いた聖書から、また、人と一緒に読んだみ言葉から、色々な形でお語りになります。“日々の生活のすべてにおいて聖霊はお働きになっている”このことを意識してい欲しいと思います。
パウロの言うような完全な人には私たちはなれません。でも、大事なのは、それでも聖霊の導きによって歩もうとするところにあるんですね。聖霊と肉というのは、プラスとマイナス、陰と陽みたいなものです。私たちにはいつも肉と霊との葛藤があります。この葛藤が大事なんだと思います。マイナスだけが私たちの中にあったら、完全な罪人となってしまいます。ですので、そこにプラスの霊の働きを求めるんです。その時、私たちは、完全ではありませんが、神さまに喜ばれる霊の実を結んでいます。
パウロはこう言っています。
『霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。』
今日、説教の題を「着いて行く信仰」とさせていただきました。これは、信仰とは、止まったものではなく、動きがあるという意味で付けました。信仰は完成がなく、ずっと神さまに着いて行くようなものだと思ったからです。イエスさまは、「わたしについて来なさい」とおっしゃいます。また、「わたしの軛を負いなさい」とをおっしゃいます。疲れたもの、重荷を負うものはわたしのところに来なさいとおっしゃりつつ、わたしの軛を負いなさいとおっしゃるのです。それは、イエスさまと一緒に歩む生き方(霊に導かれて歩む生き方)は戦い・苦しみがあるからです。でも、そういった戦い・苦しみの中での実りこそ、神さまに喜ばれる実なんです。
イエスさまは私たちの罪を背負って十字架で死んでくださいました。私たちは、その姿が決して簡単ではなかったことを知っています。イエスさまご自身、神のみむねに従うことは、そこにある苦しみがあることを教えておられます。
パウロは、フィリピの信徒への手紙2章(6~9)でこう言っています。
『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。』
なぜ、イエスさまは、あのような十字架の苦しみを負われたのでしょうか。父なる神さまに「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫び声をあげるまでへりくだられたのでしょうか。
それは、私たちを救うためです。私たちの全ての罪を背負い、その罰をご自身が受け、神さまと私たちの間に和解を与えようとしてくださったからです。愛は、自分の栄光を求めずへりくだるのです。
私たちが犯す罪は全部ゆるされています。ただ、聖書は、与えられたその自由を罪を犯させる機会にしてはなりませんって教えているのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙5章1節でこう言っていました。
『この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。』
私は思うのですが、イエスさまの十字架の姿、その歩みこそ、私たちの救いであり、弱い私たちの力だと思います。
イエスさまがあのような姿になってまで、わたしを救おうとしてくださったんだ。最後まで、へりくだって行かれるその向こうに、勝利があるということを、教えてくださったんだ。あの苦しみを通られたイエスさまがわたしのそばに寄り添ってくださっていてるんだ・・・。このことが私たちの霊的な力となっています。
イエスさまは、決して、甘い言葉はおっしゃいません。今日の福音書でも、『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』とおっしゃり全てを放棄する覚悟を求められます。また、『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』とおっしゃり、持ち物だけではなく、社会的な立場も捨てなさいとおっしゃいます。また、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』とおっしゃり、神の声を聴いたら、振り返らず実行しなさいとおっしゃいます。でも、それがマイナスに完全に支配されない歩みとなるのだと思います。
私たちの毎日は、時に単調に感じられるかもしれません。朝が来て、食事をし、仕事や家事をこなし、また眠る。そして朝が来る。けれども、たとえ日々が同じように見えたとしても、神さまはその日常の中で、この世界が良い世界になるように働いておられます。そして、私たち一人ひとりを、今日という日に招いておられます。
ルターは創世記講解の中でこういっています。
「神は、あなたを通して牛の乳を搾り、最も卑しい務めさえもあなたを通して果たされる」と。
つまり、どんなに小さな日常の務めであっても、そこに神さまの栄光が現れるということです。台所に立つことも、子どもを育てることも、職場で誠実に働くことも、祈ることも、悩む人の声に耳を傾けることも、すべてが、神の国の一部の働きであり、神さまが喜ばれる生き方となります。
ガラテヤの信徒への手紙では、『霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。』とありました。これらは特別な場所で結ぶ実というよりむしろ、日々の生活のただ中で、少しずつ、しかし確かに実っていくものです。
私たちは神の国を一気に完成させることはできませんが、神は私たちを通して、その国を広げ、推し進めておられます。ですので、今日、わたしの口から出る言葉、今日求められた仕事、今日の祈り、今日のちょっとした優しさ・・・そうした毎日の一つひとつを、神の国を思い、また、実りを思って、なしてくださればと思います。
私たちは皆、神の国の働き手です。まず、イエスさまが十字架で最大の働きを成し遂げてくださいました。そして、多くの人を今日も召しておられます。それは、牧師だけではありません。働いておられる方であっても、学生であっても、退職された方も同じです。私たちの毎日は、神さまのぶどう園で働くようなものだと思います。毎日が同じように見えて、どんな小さな歩みにも、意味があります。実りがあります。霊の導きに従って、今日という日を歩んでまいりましょう。
礼拝をライブ配信しております。メニューボタンにある【WEBライブ配信】をご覧ください。
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使徒信条
使徒信条によって信仰を告白します
われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。われは聖霊を信ず。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず。アーメン。
讃美
主の祈り
イエス様が教えてくだった祈りを祈りましょう
天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。
頌栄
最後に
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さまと共にありますように。アーメン。
最後にお祈りをして礼拝を閉じてください