御開祖物語
乾 浄照
 [第六章]
 昭和45年、久子は「浄照」、夫の勲は「宝海」の
 僧名を授かり、在家僧として、これまで以上に真理を
 探求する修行をしていくのでした。

 毎朝4時に起き、家族の食事の支度、洗濯、掃除
 などの家事をこなし、毎日欠かさずご法前に座り、
 手に印を結び、真言を唱え、心で仏を念じる三密の
 勤行をしました。
 行が終わると休むことなく修学の為、姫路の本覚寺
 へと向かうのでした。
 
 冬のある日のこと。その日は朝から雪がしんしんと降り積もり、とても外には
 出られるような状態ではありませんでした。
 電車が止まり、本覚寺に行く手段がなくなってしまったのです。

 「これまで一日も休むことなく通い続けたのに…」浄照は諦めきれずにいました。
 「どうしても今日はだめなのでしょうか!」と祈って祈っていた時、
 不思議なことに以前脱会した宗教団体で一緒だった人が、たまたま用事で
 訪ねて来られたのです。

 事情を話したところ「乾さんには大変お世話になりましたので」と
 雪が降り積もる中、危険も顧みず車で姫路へと送って下さいました。
 「何て有難いことでしょう!」と感謝せずにはいられませんでした。

 その時、これは偶然ではなく、仏様のお手配だったのだと感じた浄照でした。
 それからも度々困った時には、必ず何らかの形で仏様の手が
 差し伸べられるのでした。

 こうして、暑い日も寒い日も雨の日も雪の日も、一日も休むことなく通い続けた
 ある日のことです。
 お師匠様から「貴女の後ろにいらっしゃる方から『私を出しなさい!』と
 強く言われるので一度出してみる」と言われ、本堂の修行道場で信徒が周りを囲み、
 その真ん中にお師匠様と浄照が座り、目を閉じたのです。
 そして、心を一つにして読経していると魂がスーッと上へ上へと昇って行き、
 どんどん地上から離れ、日本から地球から離れ、宇宙の果てへと上がって
 行くのでした。

 「どこまで行くのでしょう…」と思った時、大きな池の中に蓮の花が現れたのです。
 そして蓮の花びらが舞い落ちる様子が鮮明に脳裏に焼きついたのです。
 最初は浄照も何が起こったのかわかりませんでした。
 意識が自分の体に戻ってきた時、お師匠様に一部始終を伝えました。
 するとお師匠様は「蓮の花が貴女にも見えましたか。そうです。
 聖観世音菩薩様でしたね。」と言われました。

 その時に浄照は『今まで導き下さっていた仏様が観音様であった』と悟るのでした。
 それから更に深い修行へと向かうのでした。

 お寺では法要や行事仏事のお手伝いをし、真っ先に自分が率先して檀家の
 お世話をしました。
 時には疲れて倒れそうになった時もありましたが、そんな時でも疲れた顔は
 一切見せず、いつもニコニコと笑顔で応対する浄照でした。
 更に勉学にも励み、地面に水が浸みこむが如く、留まることなく教理を
 吸収していきました。

 こうした浄照の献身的な布施行や、情熱的な探求心、純粋な求道心が認められ、
 一年後、お師匠様から夫と二人、四度加行を受けるお許しを得たのです。
 一年でお許しを得るのは異例なことでした。

 四度加行とは密教僧位である阿闍梨となる為の大変な修行です。
 通常密教流派では100日間の籠り行でありますが、在家密教では50日間で
 会得しなければなりません。
 お寺に籠る訳ですから、境内から一歩も外出は許されず、
 もちろん家には帰れません。
 50日もの間、俗世とは縁を切り、家事や仕事など私的な事は
 一切放置しなければならないのです。

 「きっと想像を絶する修行に違いない!」と思った二人でしたが、
 真理探究の魂に従い、迷うことなく受ける決心をしたのでした。

 この籠り行は一日に、通常の二倍の修行を重ねていきます。
 早朝の境内清掃に始まり、朝の本堂での勤行にも参加します。
 勤行が終わるとすぐに朝食の用意です。全て自炊で、片付けまで人の手を借りず
 自分たちで行います。
 食べる時間も終える時間も全て決められ、もちろん食する物は質素な一汁一菜の
 精進料理だけでした。
 片付けが終わると、すぐに加行が始まります。

 まず行の始めに数百回の五体投地を行いますが、すでに初老の二人には
 膝が砕けそうになるほど辛いものでした。
 それが終わるとすぐに教理を修学していきます。
 すぐにお昼になり昼食の用意。食事が終わると片付けをして、
 休憩をすることもなく、午後からの修行に入ります。
 日が沈む頃には、今度は夕食の用意です。食事が終わると、
 また就寝まで教学を重ねていきます。

 四度と言われるように大日行を始め、四種の教理修行を50日間、
 日を追うごとに深めていきます。
 お師匠様も弟子に付きっきりで口伝していきますので、強い精神力と慈愛の心で
 伝法していきます。
 多種に渡る印言、それらの応用行法、高度な護摩法、多様な祈願法、密教教理教学。
 体行だけでなく、理論も理解するように努めなければなりません。

 籠り行の間は、お風呂に入る事は許されず、刃物も料理する時以外は持てません。
 ですので、髪はボサボサ、体も汚れてくるし、夫の宝海は髭が伸び放題です。
 夫は途中で挫けそうになることもありましたが、浄照は不屈の精神で
 一度も弱音を吐くことはありませんでした。

 そして、互いに励まし合いながら、遂に見事50日間の加行を終えた二人は、
 晴れて灌頂を授かり、阿闍梨の法を全て修得したのでした。

 二人は「今だかつて知り得なかった、広大無辺な世界を得た」と悟りました。
 自分達の人生観や宗教観に大きな変化をもたらし、自他一体の真理を
 垣間見た様です。
 その後も二人は阿闍梨の僧位に驕らず、姫路に通い続け、献身的に
 奉仕し続けたのでした。

 それから約二年後、その様子を見守っていたお師匠様は、二人の飽くなき探求心を
 お試しになられたようです。
 「どうだ。もっと法が欲しいなら、今度は大阿闍梨の加行を受けてみないか?」
 「え?・・・」 二人ともさすがに即答は出来ませんでした。
 何故ならそれは、通常200日の籠り行を100日間でする行だったからです。
 つまり前回の加行の更に2倍の修行です。

 「100日間も家を空けるなんて・・・それに体力気力が持つだろうか・・・」
 夫は尻込みしましたが、浄照は今までの人生を深く省みていました。
 意に叶わぬ不幸、生き地獄のような悲しみ、理不尽な世情。
 「私は自分が変わる為に僧になったのだ。今までの辛苦に比べたら、
 どうってことはない。真理を得るまで自分に負ける訳にはいかないのだ!」
 「それに、きっとこれは観音様のお導きなのです。
 これに従わず、何に従うと言うのでしょうか!」

 浄照の持ち前の気丈夫さに加えて、お師匠様に対する絶対的な信頼、信じ切る心が
 答えを出させました。
 夫も浄照のその心情に打たれ、100日間の四度加行を受ける決意をしたのでした。

 前回の加行に更に過酷な体行や、多種多様な奥義教学が加わります。
 何時間も護摩を焚き、時には理を得るまで瞑想し続けます。
 まさに、命がけの行と言っても過言ではありません。
 途中、さすがに夫は体調を崩しましたが、浄照が支えて乗りきっていきました。
 お師匠様も一心に集中して、強靭無双な精神力と、更に深い大慈大悲の大愛で
 口伝し続けられます。

 師匠と弟子。相通じて一体となった時、その奥義はなみなみと
 注ぎ込まれていきます。
 他者と自分。神仏と我。宇宙と己。それらの境界を越えた処に精神が向かいます。
 一心に真言を唱え、手に印を結び、心に仏を念じる時、生も滅も、清も垢も、
 増も減も、五感をも超越した曼荼羅の世界が開けてきます。
 御仏様の大愛を己の心に宿した時、この加行は完成されるのでした。

 100回陽が昇り、100回暗闇が光に満ちた時、遂に二人は菩提の悟りを得ました。
 姿は薄汚れて、清潔とは程遠いものでしたが、その表情は穏やかで
 毅然としたものでした。
 お師匠様はそれを見定めた上で、改めて厳かに灌頂をお授けになり、
 道場内には二人の完行を称える、兄弟弟子達の読経声明が響き渡りました。

 昭和48年、浄照は『智光院浄照』、夫の宝海は『乾坤院宝海』の院号法名を授かり、
 密教を広く施す伝法者として、伝燈大阿闍梨の僧位を得たのでした。
 その時『吾が魂の永久に生きんと道求め求め来りしみ仏のもと』というお言葉を
 観音様より頂いたのです。
 このお言葉と、命がけの修行体験が、今までの生き方を大きく転換させる事と
 なるのでした。

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