御開祖物語
中西義継
 
[第四章]
 中西家の長男は、光明
(乾と養子縁組)
 次男は、義継と名付けられました。

 昭和40年、義継のお産は、とても大変なものでした。
 義継は、なかなか母体から出ず、最終手段として無理に
 器具を使って引っ張り出すという処置が
 とられたのです。
 その処置法を間違えられたために、数分間、酸欠状態に
 なってしまいました。
 母もまた出血が酷く、すぐに大量の輸血を受けることに
 なりました。
 この輸血が、母を長年にわたり苦しめることに
 なるのです。
 
 看護婦の手違いにより、間違った輸血を受けたために、母は脳下垂体を損傷し、
 その機能が著しく低下してしまったため、重度の自律神経失調症になってしまいました。
 そのために、母は気分の浮き沈みが激しくなり、普通の生活が出来なくなって
 しまったのです。

 それから10年もの間、入退院を繰り返す闘病生活を送ることとなってしまいました。
 母が入退院を繰り返していたために、義継もまた久子の元で預かることになりました。

 義継は、とても優しい目をした子で、女の子のような可愛い子でした。
 そして、いつもニコニコと笑い、周囲に幸せを放っていました。

 ところが、月日が経ってもなかなか首が据わらない、目も定まらない、
 言葉も発しない・・・ 間もなく一歳になるのに、明らかに通常の幼児と違う。
 どうもおかしい・・・と感じた久子と家族は、意を決して大きな病院で、
 義継に検査を受けさせることにしました。

 その結果・・・思いもよらない「脳性麻痺」との診断を受けたのです。
 久子と家族は、大きなショックを受けました。

 脳性麻痺は、世界中の医者も治すことが出来ないと言われていましたが、
 それでもどうしても治したい!!と強く思う久子は、一心に祈り、死に物狂いで
 各地のあらゆる病院に行き、「何とか治して下さい!!」と必死でした。

 身体の不自由な子を持つ、親の気持ちが初めてわかり、
 只々人には言い尽くせないほどの苦しみ、悲しみを受けた久子なのでした。

 この義継の御姿こそが、久子を真から「医者で治せないのなら、
 どんなことがあっても、ご神仏にすがって治さなけらばならない!」
 と真剣に修行する心を植え付けられる元となったのです。

 そして、一心に在している宗教団体のご本尊にすがり、只々自分を忘れて
 必死の思いで、毎日毎日看病をし、祈りを捧げました。

 しかし、そんな願いも虚しく、義継は5歳という短い生涯を閉じたのです。
 それは、義継が誕生した時に、観音様より『この子の命は4、5年である』
 というお言葉通りでした。

 これまでも、大切な人を次々と亡くしてきた久子でしたが、この義継の死は
 とても受け入れることは出来ませんでした。
 泣いて泣いて「私の命に代えてでも、生かせてあげたかった!」と
 涙が尽きるまで泣き続けました。

 義継が誕生してからは、「この子の為に、この子の為に・・・」と尽くし切る
 4年間でしたが、実はこれが、本当の真剣な修行の始まりでありました。

 後々に久子は、「苦は楽の種と申しますが、この苦しみなくしては、
 ”仏様は絶対である!!”とは、とても信じきれませんでした。
 義継のお陰で、信仰の真実は何かということ、そのためには必死で、この身を捨てて
 修行しなければ、とうていその意味を理解することは出来ない」と悟りました。

 そして、かつて観音様より頂いた
 『汝等、両名 世にも稀なる役目あり。夢 忘るべからず』というお言葉が、
 現実にこれであったのだ!とわかり始めたのでした。

 この後も苦難の日々が続くことになるのですが、少しづつ仏の道を歩んで行く
 久子なのです。


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