御開祖物語
乾 光照
 [第十六章]


昭和58年5月。
庭では小鳥がさえずり、青々と伸びた草木が
朝陽を浴び、一筋の光がカーテンの隙間から
スーッと和室へと差し込んでいました。
そこには大きな座敷机と4人分の座布団が
並べられています。
この日は、高梨さん家族の三世因縁解脱法の
伝法の日でした。


 お昼を過ぎた頃、緊張した面持ちで、高梨さん家族が光照の家を訪ねて来ました。
 何度も訪問している光照先生の家が、いつもとは違う空気で包まれているように
 感じるのでした。

 この日も優しい笑顔で出迎えてくれた光照でしたが、紫色の法衣を身にまとい、
 三人の前に座った時、表情は一変しました。
 そこには、いつもの優しいお顔ではなく、凛とした師としての厳しい光照の姿が
 あったのです。

 そして、三人を前にして言いました。
 「この大白身法は、口伝で師匠から弟子に伝えていくものです」
 「弟子に授ける前に、必ず観音様にお伺いを立てて懇願し、
 了解を得た者にだけしか授けることができないのですよ。
 密教はそれだけ厳密なものですから、しっかり覚悟して受けて下さいね」

 光照から一人ずつ、わら半紙10枚以上に、ぎっしりと薄い文字で書かれた紙を
 配られたのです。
 それは、光照が師匠から伝授された、ご自分の次第書をガリ版印刷したものでした。

 目を通す間もなく、すぐにその原稿をノートに書き写す作業が始まりました。
 一時間、二時間…どんどん時間が過ぎていきます。
 しかし、なかなか終わりません。
 気がつけば、三人とも鉛筆を持った指や小指の端が真っ黒になり、
 ぎゅっと握り締めた手には、もう限界が近づいてきています。
 でも、痛さや辛さを感じる余裕もなく、必死に書き写していったのです。
 光照は、その場を離れることなく終始正座をし、三人が書き写すのを
 じっと無言で見つめています。

 三人が時間を忘れ、一文字も間違えないように無心で書いている姿を見て、
 光照は高梨さん家族の信心の深さを感じているのでした。

 書き始めてから、既に五時間が過ぎようとしていました。

 夕日が部屋を赤く染め始めた頃、ようやく最後の一行を写し終え、
 その筆を置いたのです。
 三人とも全身の力が抜け、思わず机にうなだれてしまいました。

 「今日は、ここまでに致しましょう」

 光照がそう告げると、急いで普段着に着替え、台所に入って行きました。

 「皆さん、疲れたでしょう?」

 そう言ってリンゴを剥き、お茶とお菓子を出して下さるのでした。

 「先生の方がお疲れなのに、僕たちのことを気にかけ、
 もてなして下さるなんて…」

 伝法にあたり、光照が一人で次第書を一枚一枚、ロウ原紙にガリガリ文字を
 彫り込み、インクを染み込ませたローラーで印刷しました。
 それはそれは、根気のいる手作業で準備したものです。
 それを察知した高梨さん達は、宝物を頂いたように、大切にその報恩を胸に抱き、
 光照の家を後にしました。

 それから一週間後、強い雨が降りしきる中、高梨さん家族は光照の家に
 足を運んでいました。

 伝法二回目のこの日は、前回書き写した次第書の読み合わせです。
 それは、漢字やカタカナが混ざり合い、とても読みづらいものでした。
 予習はして来たものの、読み慣れない真言などは、なかなか思うように
 発声できませんでした。
 それでも光照は、何度も何度も繰り返し、三人が正確に読めるまで、
 読み合わせをしていくのです。

 口は乾き、喉を潤したくても伝法中は、何も口にすることはできません。
 始めてから六時間近く経った時、ようやく光照から了承されました。
 この日も終わったのは、すっかり陽が落ちた頃でした。

 6月に入り、高梨さんの会社も忙しくなってきたため、
 三人のお休みの日がなかなか合わなくなってきたのです。
 三人の日程が合うのが、日曜日の夕方からということで、とても悩みました。

 「そんな遅い時間から、お願いしても良いものだろうか…」

 光照先生にお聞きしたところ

 「こちらは何時でも大丈夫ですよ。皆さんのご都合の良い時間にお越し下さいね」

 と、いうお返事でした。

 ご好意に甘え、快く承諾して頂いた日曜日の夕方より伺ったのです。

 伝法三回目は、両手に印を結びながら実際に行じていきます。
 法具を使わず、柄香炉、火舎香炉、酒水器、塗香器、散杖は、画用紙に書いて
 「前に置いてある」という観念で、簡素に伝授されました。

 一つ一つの真言を口で唱えながら、次々と両手で印を結んでいきます。

 両手の小指と薬指を組み、人差し指と中指を立て絡ませ、
 親指を交差させた時、突然…

 「痛ったたた!」

 お父さんの指が吊ったのでした。

 お父さんの手は大きく、年齢的にも指が堅くなっていたので、
 指を複雑に絡ませることがとてもきつかったのです。
 また、真言を唱えた時には、上手く発声できずに、くちびるを噛んで
 血が出てしまうこともありました。
 それでも諦めず「絶対に修得せねば!」と、強い気持ちを持って臨んでいました。
 しかし、何十種類もある印を結び、覚えることは、そう簡単なものでは
 ありません。
 50才を過ぎた両親にとっては、なかなか困難なことでした。

 「あぁ、何でできないんだろう」

 お父さんが頭を項垂れ、考え込んでいる姿を見て

 「大丈夫です。私が修得したのも、そんなに若い時ではなかったのですよ。
 そのうちに、だんだん手が慣れてきますので心配ありませんよ」

 と、光照は励まし続け、更に伝法に情熱を注ぐのでしたが、
 この日は、完璧にはできないまま終わることになりました。

 気がつけば、夜11時を過ぎていたのです。
 それでも高梨さん達の様子をみて、

 「こんな時間になってしまって…お腹も空いたでしょ?家にあるものですけど、
 一緒に召し上がりませんか?」

 と、お腹にやさしい野菜たっぷりのおじやを出して下さるのでした。

 心もお腹もいっぱいになり、光照先生の家を出た時には、
 既に日付けが変わっていました。

 自宅に着いてからも、忘れないうちに、と三人は時間も忘れ、
 今日の復習をするのでした。

 次回は二週間後です。
 それまでに完璧にできるように、と三人は意気込んでいました。

 翌日からは、毎日仕事から帰って来ると夕飯を早く済ませ、
 夜遅くまで三人で習練を重ねるのでした。

 お互いに印を確認しながら、

 「これで合っているか?」

 「あっ、お父さん、その印は左右の手が逆になってますよ。こうですよ」
 と、お母さんが見せるのでした。

 「はぁ、なかなか難しいな。早く完璧にできるようにしなければなぁ」

 「そうですよ。お父さん、頑張りましょうね」

 年齢も若く、比較的早く修得できていた和夫さんを、
 両親はとても頼りにしていました。
 そして、三人で取り組んでいくうち家族は、これまで以上に結束力が
 強くなっていくのでした。

 二週間後。
 お願いしていた法具も届き、伝法四回目のこの日は、いよいよ金色に輝く法具を
 使って実践していきました。

 初めて使う法具に三人は、緊張を隠せません。
 自然と背筋はピンと伸び、一つ一つの作法をとても慎重に行っていくのでした。
 和夫さんは、塗香器や酒水器の蓋を開ける両親の手が、微かに震えているのを
 目にしていました。

 「緊張しているのは皆、同じなんだ…」

 いつの間にか、真言も印も前回よりもずっと早く、
 そして正確にできるようになっていたのです。

 そんな三人の様子を見て、

 「皆さん、短い期間で本当に頑張りましたね。ほとんどできていますよ。
 あと一回で終われそうですね」

 「本当ですか?」

 「次回は、最初から最後までお一人ずつ作法をして頂きます。
 あと一回です。頑張りましょう」

 叱咤勉励する光照に笑みが生じました。

 この日も終わった後、高梨さん家族の体調を心配し、栄養たっぷりの
 クラムチャウダーを出して下さるのでした。

 「お時間がおありでしたら、どうぞ召し上がって下さいね」

 三人は毎回、心のこもった美味しいお料理や手作りのお菓子を頂き、
 相手を気遣う光照先生の深い愛情を感じているのでした。

 そして、食事をしながら先生のお話を聞くのが、何よりも楽しみだったのです。

 高梨のお母さんが先生の体調を気遣われても、

 「全然大丈夫ですよ。私はね、法の話をしている時が一番元気なんですよ!」

 満面の笑みで応える光照を見て三人は、

 「生涯、光照先生について行こう!」
と、心底思うのでした。

 一週間後、いよいよ伝法最終日です。
 この日は、朝早くから出向いていました。
 それは、朝の涼しい時間の方が先生のご負担も少ないだろう、
 という気持ちからでした。

 三人は白衣に着替え、裸足になって、その時を待っていたのです。

 緊張感が漂う中、9時ちょうどより最終伝法が始まりました。

 カーテンは閉じられ、暗くなった部屋で、ろうそくの灯りによって写し出された
 四人の影が揺らめいています。
 大気の流れとともに、部屋には真言を唱える声と法具の音だけが響いています。
 弟子が一人ずつ作法を行っていく中、光照の目は、いつも以上に厳しく、
 一つのミスも見落とさないよう、耳を澄ませ、じっと手元に視線を向けていました。

 時には

 「違います!やり直し」

 と、厳しい声が部屋に響き渡ります。
 待っている側も、張り詰めた空気の中で、師弟の息づかいと鼓動が
 伝わってくるのでした。

 三人の伝法が滞りなく全て終えた頃、カーテンを開けると、
 夏の太陽が既に高く昇り、燦々と輝いた光が四人を包み込みました。

 高梨さん達は、これまでの人生で経験したことのないような時間の経過を
 体感したのでした。

 「皆さん、本当に頑張りましたね。大変だったでしょう」

 「実はね、観音様より僧名を頂いているんですよ」

 光照は、にこやかな笑顔で言いました。

 そして、光照から行法を修得したことを証明する伝法書を、
 一人一人に手渡されました。

 そこには、それぞれの僧名が記されていたのです。
 その僧名は一人一人のこれからの進むべき道、修行の在り方、心の向き方、
 僧として生きる道を示されたものでした。

 伝法書を胸に心は躍り、歓びと同時に、これから死ぬまで千座行を行う使命感を
 強く心に植え付けました。

 三人の目には、泉が湧き上がるがごとく、涙が止まりません。
 苦しみがあったからこそ、光照先生という師にめぐり合い、
 このような有り難い法を伝授して頂けたことに、心から感謝するのでした。

 光照に感謝を伝え、三人はいつものように車で帰って行きました。
 お母さんが、さりげなく後ろを振り返った時、ずっと門の前で手を合わせて見送る
 光照の姿がありました。

 三人を見送り、部屋に戻った光照は、無事に伝法が終了した安堵感で、
 どっと全身の力が抜け、居間のソファーに思わず倒れ込んでしまったのです。
 高梨さん達の前では、決して見せることはありませんでしたが、
 古希を目前にかなり体力的にも限界がきていました。

 大きく息を吐き、ふと庭に目をやると、目の高さまで伸びた向日葵が、
 陽に向かって神々しく咲いています。

 希望に満ちたキラキラと輝く向日葵が、大阿闍梨伝法者として、
 風格を得た光照の姿を現しているようでした。

 そして、光照は、いよいよ70才を迎えるのです。


 目次   第十七章
   著書の紹介

TOP