御開祖物語
彫刻刀
 [第十一章]
昭和53年8月。
夏の太陽が照りつける中、浄照は
夫の初盆を迎え供養をしていました。
たくさんのお花に囲まれた祭壇には
優しく微笑む夫の写真、美しく回る灯籠、
そして上段には幼子を抱えた観音像が
祀られていました。
観音像は浄照を見守るように見つめて
いるようでした。
この観音像は、
 さかのぼること8年前・・・
 昭和45年。

 自分の命に代えてでも助けたかった大切な孫を失い、溢れる想いを抑えきれず、
 いてもたってもいられなくなっていた浄照。

 「何とかしてこの子が成仏してもらいたい!
 仏像を彫って永代供養をさせて頂きたい!」

 以前から彫刻の教室に熱心に通い、平彫りの練習を重ねていた浄照は、
 仏像の部分的な手や顔の練習はしていました。
 しかし、今回は初めての一木造です。
 失敗は許されない作業ですが浄照の心に迷いはありませんでした。

 彫る!と決めたら早速、洗い場にて祈りを捧げ呼吸を整えました。
 そして頭上から水をかぶり体を清めました。
 白衣に着替えては白い紐の先を口に加え、手早く左肩から右の腕を通して
 右肩でギュッと結んでたすき掛けをし、気持ちを引き締めました。

 まず、思うがまま大きな丸太に下絵をかき、削ってはまた絵を描きながら
 粗削りを始めました。
 大きな丸太の角を落としていく作業は小柄な浄照にとっては
 とても彫りにくいものでした。
 のみと金づちで何度も打ち砕き、角を削っていきました。
 何度も打ちつけるたび、火花が飛び散り火傷をしそうになったことも。
 仏像の首から肩にかけてのラインは難関そのものでした。
 何度も右手を振りかざしては打ち、反対から打ったりと幾度も幾度も
 繰り返していきました。
 いつしか金づちを打つ右手は、肩から腕にかけて電気が走るような
 激痛に襲われていたのです。
 それでも手を休めることはありません。
 食べるのも惜しみ、寝ることも忘れ必死に彫り続けました。

 ようやく顔の輪郭が出来てきた時、浄照の右手は悲鳴をあげていました。
 それでも休むことなく顔の部分の粗削りに取りかかりました。
 耳、目、鼻、口はちょっとした角度でバランスが崩れるため、
 とても慎重に時間をかけて彫っていきました。
 続けて宝冠も。
 宝冠はとても大事な部分だけに深呼吸をし、ただただ一心に。
 宝冠中央には小さな仏様を彫り、細やかな模様をつけました。

 また、衣が重なっている部分は自分の肩に薄い布を掛け、鏡に写しながら
 より曲線的なラインとなるように刃の先を少しずつ動かしながら衣のシワを
 出していきました。

 気がつけば浄照の右手の中指には大きなタコができ、
 今にも潰れそうになっていました。
 痛みを感じながらも彫ることをやめず、夢中で彫り続けるのです。

 次は繊細な左手の表現です。
 左手の部分だけは別に彫っていきました。
 練習した小さな手に比べると彫りやすいものでしたが、人差し指のしなやかさ、
 小指のか細さ、手のシワなど指を表現するのに大変苦労しました。
 自分の手をかざしては彫り、じっと見つめて、よりリアルに彫っていましたが、
 細かい線を彫ることは、器用な浄照でも容易なことではありませんでした。
 時には力が入り過ぎて

 「痛っ!」

 左手の親指の付け根を3センチ近くも三角刀でえぐってしまいました。
 血がポタポタ床に落ちても絆創膏を貼っては、またすぐ彫り始めるのです。
 幾日も幾日も時が経つのも忘れ、ようやく納得のいく手の表現が
 できるようになりました。

 次に右手には孫を抱き抱えている姿をイメージして彫り始めました。

 「義継…義継…」

 何度も名前を心でささやきながら孫の成仏を願い、ひと彫りひと彫り
 祈りと共に一心に刻み込んでいきました。
 少しずつその姿が現れた時、これまで必死に彫ってきた浄照の手が
 止まりました。

 「まるで義継が蘇ったようだわ」

 疲れが限界に達していた浄照でしたが、生き返ったような孫の姿を目にし、
 身も心も癒されるのでした。

 「おばあちゃん、あともう少しだよ。がんばって!負けないで!」

 ふと、そんな風に聞こえた孫の言葉に背中を押され、いよいよ一番難しい
 仏様の表情の仕上げに取りかかりました。

 小さい彫刻刀に替えて柔らかさを意識しながらゆっくりゆっくりと。
 何度も角刀と平刀を持ちかえ、細かく表情を現していきました。
 口角の角度でガラリと表情が変わっていくのに驚く浄照でした。。
 失敗は絶対に許されないため、手がどうしても震えてしまいます。
 そんな時は無心で『南無観世音大菩薩』と念じ、心を落ち着かせたのです。

 ようように顔と体の完成が近づいてきました。
 別に作った左手の部分も装着し一体となりました。

 その頃には浄照の右手の豆は潰れ、巻いていた包帯には血が滲んでいました。

 あとは色を塗ったら完成です。

 何本もの筆と薄く溶いた絵の具や染料を用意し、両手に筆を握り締めては
 仏像をじっと見つめ、色のイメージを頭の中で浮かべていました。
 木地の風合いを見ながら淡く柔らかな印象に仕上げたい、と決めるとすぐに
 筆を使い分け、丁寧にしなやかに色を塗っていきました。
 仕上がっていく観音様に胸が熱くなっていくのでした。

 そして、

 どれくらいの時が経ったことでしょう。
 あけぼの近く、東の空に日が昇る頃、天と地の間に澄みきった流気の中、
 祝福するかのように、にわかに風は歌い、鳥は美しくさえずり、
 花や草木の香りがたち込めてくるのでした。
 一筋の光がまるで後光を放つように仏像を照らした頃、
 聖観音様が完成したのです!
 それは浄照の想いが具現化された瞬間でした。

 これまでずっと気を張っていた浄照でしたが、その完成した観音像を前に
 ほっとして思わず全身の力が抜け、床に倒れ込みました。
 もう起き上がる気力さえもなくなっていた浄照でしたが、
 その表情は清清しく輝いていたのです。

 完成した観音像は慈悲深い穏和なお顔で、左手には印を組み、
 右手には前を向いて微笑み合掌している幼子をしっかり
 抱きかかえているのでした。

 深い愛に満ち溢れたその仏像を『慈母観世音』と名付けたのです。
 この慈母観世音様は、後に人々の信仰の礎となる浄照を
 菩薩の道へと導いていくのでした。

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