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人は容易に自分が悪かったとは思えないものです。
あの時あの人がこうしたから自分はこうなったのだと自己弁解して、
相手の悪いが故に結果が悪くなったのだと決めてしまうものです。
相手があのようにしたのは、自分がこうしたからであったと、素直に自分の罪を
認める事が出来た時、初めて人は正されるのであります。
いつもいつも自分は正しいのに、相手が悪いと思っている間は決して
自分は修正されず、従って清浄となる事も出来ず、魂の進歩も向上もないのであります。
それでは成仏出来る訳もありませんので、垢の付いたまま、即ち業深い自分とは知らず、
尚その上に業を重ねてゆく自分の行く末も悟られない哀れな自分をさらけ出して、
平然としている有様は無智そのものでありまして、人としては本当に恥ずかしい
愚かな次第であります。
時々の自分を反省し、修正してゆく所にこそ大切な自分を
美しく修正してゆくものでありまして、その反省の種こそ時々の出会いの縁とも
申すべき相手の言動であります。

自分の心に逆らう相手の言葉や行動こそ、自分の心の奥を深く探り見て
「ハッ!」と気付かせて下さる御仏の御手配であると悟り得て、
素直な気持ちで受入れる事が出来れば、どのような相手の言動にも傷付けられ、
動揺される事のない冷静な自分自心を守る事が出来まして、
そこにこそ相手がこの様な言動をとるのは、自分の心のいたらなさ故であると
自己反省が出来た時、人は始めて相手を拝む境地を悟り得るのでありまして、
その境地こそ人をして拝まさしむる自分となり得るものであります。
在家にあり、俗人と交わりながら成仏出来得ると申すことは容易な事ではありませんが、
交わる人は皆御仏の御手配によりて、自分の過去の因縁浄化の為に
現れた所の修行の相手であると悟ったとき、自分の覚悟は定まるのでありまして、
在家に身を置いて俗人と交わりてこそ、真の修行であると決心して
周囲の一人一人が自分を正し、修正して成仏の道に導いて下さる仏であると拝む時、
「人を見る事仏の如く、衆生を見る事父母の思いの如くせよ」と
経文にしるされてあります御仏の御言葉が、しかと身に頂く事の出来得る
自分と成るのであります。
これが、在家の修行であります。
合掌
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