平成12年度法話
  ここでは当道場で勉強させて頂いております
  法話をご紹介致します。

  (H12.12/1掲載)
人としての生き方

人間として一番愚かな事は神も仏も知らず、自分の体は自分のものだと
思っている事であります。
それ故に自分の肉体を喜ばす様な快楽のみを追い求めて、
果ては我欲の鬼となり大事な自分を自分自身で地獄に落としてゆくのであります。

自分の体を自分のものだと思う間違いが根本的な不幸の元とも知らないばかりに、
欲しいままに身勝手な事をして人を苦しめ、人から嫌われ、
人からさげすまれる様な下せんの自分となって行く事すら気付かないとは、
何と云う情ない愚かな人生でありましょう。

「一日として自分の力では生きられないぞ」との御神仏の御悟しによって
医学では治らない病気になったり、自分の力ではどうにも立ち上れない貧乏のどん底に
落されたり、自分の思う様にならない子供となったり、夫婦の不和となったり、
いろいろの苦しみとして現わされるのは皆、自分の心得違いと悟されている処の、
神仏の大きな御慈悲なのであります。

自分の非を悟る事が出来ないばかりに、自業自得と申す業の炎を
自分で作って自分の身を焼かれるのであります。



この苦しみに堪えかねて自殺する人も沢山いますけれど、
自殺して肉体を無くしてしまっては尚更にその魂の救いを求める道具を失った訳でありますから
一層の苦しみに永遠の闇路をさまよう事となるのであります。

何故なれば肉体こそ自分の苦しみの元である魂の救われる様に求め、
磨いて行く事の出きる唯一の道具である訳なのですから、
その救われる手元を無くしてしまっては救われる方法がなくなるのでありますから、
自分の魂の救いの為には、肉体は絶対に必要なものであります。

それ故に好き勝手な事をして何の反省も懺悔も知らない人生を終った人は、
その自業自得の罪科の為に無限の地獄に落とされて、只子孫の救いを必死に求める
のみでありますが、子孫は又親や先祖の苦しみはさ程に思わず、
必死で供養しお救いしなければとは仲々に思ってくれないものであります故に、
人はそれぞれの業の為に六道を輪廻して仲々に成仏出来ず、
いついつまでも必死に子孫の体にすがりついて助けを求めているのであります。

これが家の因縁となって子々孫々に代々伝わる同じ運命となって現われて来るのであります。
そして遂に子孫断絶の憂き目を見るはめとなり一族全部浮遊霊となって
宿るべき家もなく、頼るべき子孫も無く永遠に浮浪児の様な哀れな様と
なってしまうのであります。

それ故にこそ人間は自分が大切であればある程、本当に自分を大切にすると云う事は、
自分の真我である処の魂の真の救いを求める為にこそ、
肉体は与えられているのだと云う事をしっかりと悟る事が肝心要であります。

この肉体は神仏から貸して頂いている自分の魂を磨く為にこそ絶対に必要な道具である故、
その為にこそ使うべきものであって、自分の身勝手な我欲の為に使うべきものではない
と云う事をしっかり悟ってこそ、始めて真の自分がどうあるべきかを知る智慧を
さずけて頂けるのであります。



神仏の分身であるべき自分がこの様に汚れては、誠に恥かしいと自分の心に目覚めた時、
人は始めてこの世に生かせて頂く事のどんなに尊く又有難い大慈大悲の御蔭であるかが
分るのであります。
そこで始めて余りに勿体ないこの御慈悲にひれ伏して感謝する心が
湧き出づるのであります。

そしてこの御報恩何を以てなすべきかと深く考えて見る時、神の子として仏の子として
恥ずかしくない自分とならなければ報恩とはならないと分って見ますと
今までの自分の生き方の如何に間違っていたかと云う事がおもむろに悟られるのであります。
これが真の懺悔なのであります。

そして悔いを改める為になすべき行とは、どの様にすべきかを悟って行く時
今までの盲同然の自分にも心眼が開け、神仏の御存在がはっきりと分ってくるのでありまして、
自分だけでは申し訳ない、すべての同胞にこの歓びを分たねばと思う処に
使命を感じ得る事が出来る様になり、本当の御導きこそ、神や仏の子である
自分の人生の真の在り方であると悟られるのであります。

ここに同胞愛が生まれ、人の身も自分の身も皆同じく神仏の分身である故に
人の苦しみは自分の苦しみであり、人の喜びは自分の喜びであるとの自他一体の真理が
悟られて来るのでありまして、そこには我欲も我見も争闘も無く、
平安、極楽の世界が開かれるのであります。

 合掌

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