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汝等一同の者よ、世情混沌となし、法末世に至り、
人心いよいよ悪に満ち溢れたるこの娑婆世界に、
いつ何時、命失わんやも計り難き今日なり。
さればまず、生くる者の覚悟といたして、
信仰の第一はいつ何時この肉体召されようとも、
地獄の果てに堕ちざるよう、いかにいたさば浄土に迎え入れられ、
生きたる甲斐ある生涯の終末を、めでたく終わるべきやを申し聞かすべし。
人といたして生まれしは、いよいよこの度こそは、
今世の肉体を使いて成仏なすべき時期にありと、
覚悟いたさねば相成らぬものなり。
さればまず、己が過去世に、知らざれども輪廻いたして、
六道より解脱なし得ざりし証拠とは、
深き罪業未だなお消滅なさざる証拠なり。
されば成仏の道とは、まず第一にこの過去無量劫なる罪障をば、
今世に消滅いたし得ることにあり。
その罪障の消滅こそ、仏の御前にひれ伏して、我が身今世に有る限り、
過去世の罪障懺悔なし、必ず浄土に迎え賜らんこと、
切に祈りての信仰にあらざれば、いかに一心に拝めばとて、
己が罪業をも知らず、なおその上に今世に積みゆく罪業の、
いかにあるべきやをも悟り得ざれば、成仏は到底おぼつかなきことなり。
されば仏に額ずきて、合掌いたし奉らんの第一の義とは、
深く己れを省みて、知らずしらずに積み来たりたる罪障、
知りてなお敢えて犯せし罪業の、いくばくありやも省みもせず、
ただうかうかと我が身の安泰のみを願い、今世の罪業消滅などとは、
思いも及ばざりし己が過去、深く省みてまず懺悔なすことこそ、
信仰の始まりなり。
しかして永き生涯に時間ときまに現るる身の懺悔とは、
己が身も心をも痛め尽くさん不幸の渕なり。神も仏もおわしますればこそ、
己が罪業しみじみと懺悔なすべき機会といたして与えられたる不幸なり。
不幸の渕より逃れんと、ただ一心にすがりよる心とは、
さながら幼子の母にねだりて、欲しいままなるをせがむがごときものなり。
かく幼き信仰より、ようよう目覚めて、身に受くるこの痛み、
みな我が身に返りし己が罪業なりと、しみじみと悟りゆく時、
受けねばならぬ我が身の罪障、身に頂きてこその御慈悲なりと、
ただただ謝し奉らば、たとえいかなる不幸の渕に沈まんとも、
かく頂きてこその懺悔なりと、性根を据えて真にすがりゆく信念に、
深き信解を養いゆくとき、不幸と思いて嘆き苦しみたること、
何の不幸ぞや。深き罪業かほどのことにて、許させ賜るもったいなさ、
かたじけなやと伏し拝めば、御仏厳然とおわしますをば、
心眼にしかと受け止め得て、我が身はそのまま現世の浄土を悟り得るなり。
懺悔とは身の痛み苦しみを逃れんとして、
いかにもがけばとて、到底なせざることにあり。
痛みてこそ、人を痛めし辛さを悟り得るなり。
苦しみてこそ、人を苦しめたる己が罪業悟り得るなり。
かくて人生永きがごとく見ゆれども、
一つひとつに頂きて、
一つひとつに開きゆく心眼に心の開く現世こそ、
まさに浄土に住まいなす、我が身そのまま御仏の御側にありと悟り得る時、
死も生も、何の心の患いぞや。
命とは我が魂の不滅なることにありしをしかと悟りなば、
今世に賜る肉体の、たとえいささか欠けたりとも、
なんじょう苦しむことやあるべき。
たとえて申さば、我が身に着たる衣の、いささか破けしがごときものなり。
ほころびは繕いて、古くなればまた新しき衣に着替えて、
何の惜しみやあるべきぞ。
汝等よ、成仏とは死しての後のことにはあらず。現世肉体ありのまま、
その魂に頂ける御仏しかと我が内に住まい賜うを悟りゆくことなり。
肉体にとらわるるが故に、死しての後に不安あり。生きてなおさら恐怖なり。
何と愚かしき盲目の有り様ぞや。肉体とは仮の器なり。
己が真実とは、その中にこそあり。
魂の目覚めをこそ、得させ給えと祈りゆく、真の信仰を悟り得る時、
まさに正法とは、現世に生きてありのまま、
己が魂浄土にあるを申すなり。
汝等よ、死しての後を頼むより、生きて甲斐ある日々にこそ、
この肉体の必要なるをしかと悟りて、
老いも若きも、己れに負けざる精進にこそ、
現世そのまま浄土を作りゆくものと知るべし。
合掌
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