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汝等一同の者よ、静かなる瞑想において、己が魂を鎮むるとき、
荒れ狂う邪心、悪念、みな自らに鎮まるるを覚ゆるであろうがや。
心とはすなわち念、念とはすなわちその魂の在り方にして、
これをただ目にも見えず、耳にも聞こえず、
身にも感ぜざるものと思うは誤りなり。
天地自然ありのままなる姿こそ、己が心と同じくして、
この天地自然を手本と致して己が心の在り方を悟りゆくとき、
荒れ狂う憤怒の心、憎しみの心、
押さえ切れざる己が自制の無さとは、
つまり自然の起こせし暴風雨のごときものなり。
何故なれば、己が心に巣くう邪心、悪念、なにかの機会に、
鎮まれる己が魂を掻き乱し、憤怒、憎しみの情を起こさしめて、
その荒れ狂う念は、家庭においても、社会においても、
また国家においても、すべてこれ暴風雨を起こすなり。
されば人間つねに己が心の禅定なるを願い、努め、精進致して、
邪念悪念に冒されざる己れを作りゆくことこそ修行なり。
病魔に冒さるるも、また己が心の自然に反せしその因縁をもって、
隙間を狙いて襲いかかりし悪魔なるを悟り得ざれば、
ただ人の力をもって、この悪魔追い出さんと致しても、
容易に追い出し得るものにはあらず。
一切の我が身を覆う不幸とは、すべてこれ、己が心の在り方、
すなわち己が念より発するところの波動、嵐を呼び、
大嵐となり、ついに我が身を滅ぼさんこと、
これ日々の新聞紙上にても明らかなるごとくなり。
されば信仰とは、己が心を常に禅定に保ちゆく修行をもって、
何事にも冒されざる不動の信念養いゆくことをもって、
第一の修行となすものにあり。
さればこそ瞑想とは、己が心を鎮めしずめて、いかなる悪魔、
悪因縁にも間魔いたされざる己れを作りゆく修行なり。
病を恐れ、不幸を恐れ、何事にも不安と恐怖の日々にあれば、
それは皆、己れ自身を脅かする、
己れ自身の握りて離さざる悪魔の姿なりと悟るべきなり。
一切の悪因縁に間魔いたされざる己れを作りゆかんことこそ、
人生最大の幸せと悟るべきなり。
金銀財宝いかにあらんとも、この魂は養い得ず、
また大家高楼に住まい致さんも、常に不安と恐怖と、
憤怒の念に満たされなば、その大家高楼こそ、
己れを脅かす悪魔充満いたせし魔窟となりゆくものなり。
身を置くに座して半畳、臥して一畳、
ただこれあれば十分なる六尺の体、
なんの不自由あるべきこと無きを、心に悟り得れば、
大家高楼も、金銀財宝も、ただ己が身を不安と恐怖に陥るる、
むしろ災いの元なりと知る時、ただ何物にも冒されず、
脅かされざる、平和と安穏の己が生活において、
家庭にこもる平安の気は、家族一同を和ませ、幸せに致し、
それぞれの身体、自然のままなる健康を保ちゆくなり。
汝等よくよく深く考えて、己れ自身を不幸に落としゆくは、
また己が心の在り方一つなりと深く悟りて、
常に平和と安穏を願いて、心、禅定に努めゆくことこそ、
天寿まっとうし得て、家族一同、町内一同、
国家一同みな平穏に安穏を保ちゆく、唯一の道なるぞや。
合掌 |


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