今月の法話
 ここでは当道場で観音様より賜りました
 お言葉を掲載致します。

 

 (2023年9月1日掲載)
仏道の真価

広大無辺の大宇宙の中で、私たちの存在というものは、
いわば大きな盥に水をいっぱい入れて、
それをごじゃごじゃごじゃごじゃと?き回すと、
大小様々の泡が浮き上がってくるでしょう。その泡の様なものです。
どんな大きな泡でも、どんな小さな泡でもプツッとつぶれたら、
また元の水の中へフッと消えてしまうんです。
もうその見えている間は上から見えている間だけ、
いわばこれは、人間の一生の様なものなんです。

大きな泡はたとえ水の中に目立つ様な有名な人、
偉大な人、本当に人にびっくりする様な大きな事をした人、
もうとにかく世界中で、どんな偉大な人でも、必ずプッと突いたらすぐ消えます。

この泡の盥を見ている私達は、もう大小様々なそれは全部同じものなんです。
大きいのも小さいのもみんなプッと突いて消えたら全部元の水に還ってしまいます。
この水がいわば、宇宙の大気の様なもので、
この宇宙の大気の中に私達はこうして泡の様に、ポッポッと現れたものなんです。
自分でどんなに、長生きしよう、どんなに大きくなろうと一生懸命努力しても、
もがいても、それはどうしようもない、
必ず潰れて元の水の中に還元されるものなんです。

私達の人生というものは、丁度この大きな盥の水の上に浮かんだ、
泡の様なものです。それを悟らないばっかりに、何とかして人より偉くなろう、
人より上になろう、何とかして人より目立つ様になろうと、一生懸命背伸びして、
背伸びして暮らしている様な我々の人生なんです。
考えてみたら、元の水に還元するだけの、
短い時間を泡となって浮いている様なものなんです。

こう考えてみると、
全部必ず元の大空に帰一しなければならない我々の宿命なのです。
永久に肉体をもって生きる事は、絶対に許されない世界なのです。
けれども、私達は、この肉体を何とかして喜ばせ様、そして何とかして、
少しでも偉い者、高い者になろうと背伸びして背伸びして、人をつきのけ、
つきとばし、そして人の不幸を顧みず、自分が何とかして少しでも、
良くなろう良くなろうと、一生懸命もがいている様な人生なんです。

ここで、静かにずっと考えてみると、私達はこの大空の中から、
無限無量に広いこの空の中から、この娑婆という世界に出されて、
肉体という泡の様な形を与えられて、一瞬の命として、この世に生きる事は、
どんな大きな意味があるか、それをしっかり考える事が仏道なんです。

そして、この広大無辺の大空の中から、一人一人この世に出されたのには、
必ず大きな大きな使命があって出されたものであるという事を、
それをしっかり悟る処に、人生の根本義があるのです。
只、無意味にこの世に出て来たものでは絶対ないんです。
けれども、人よりは少しでも良くなろう、
ちょっとでも高くなろうと競争ばっかりしている我々の心を、
もう瞬時も止む事を知らない幸せになろうなろうと、幸せをもとめてやまない、
この欲望で一生が瞬時も休む事の出来ない様な、慌ただしい日々なのです。

そして、自分の幸せになりたいなりたいと、
一生懸命命がけで思って努力するけれども、
人間の努力とは、本当にしれたもの、どんなに努力してみても、
この世で本当に世界一自分の欲望の到達された人であっても、
必ず元の大空に還らねばならないものです。跡形もなく消えてしまう命なんです。

そこで、私達がこの世で、一生懸命自分の幸せを願って、際限もない欲望の為に、
あくせくしてる日々をじっとごらんになられて、
観世音菩薩様がいかにもあわれな小欲の無知の者共、
何とかして本当に幸せとはこういうものであるという事を教えて頂く為に、
色々な御慈悲の御手配を以て、人間的に見れば、不幸であるという様な、
色んな挫折がもたらされるのです。

倒れて、痛い目にあって初めて倒れた人の痛みも、
自分がしみじみと悟る事が出来るんです。
自分が倒れて痛い目にあわない人は、絶対人の痛みは判らない、
それ程人間とは無知蒙昧で、自分の事だけしか考えない様な心の狭いものなのです。
それで無限に追い求める幸せ、自分の為に自分の為にと、
少しでも幸せになりたいなりたいと思う欲望、それをじっとご覧になられて、
大きな一つのお諭しを下さっているのです。

それは、本当に自分が、今よりもちょっとでも幸せになりたければ、
一人の人の幸せの為に、一生懸命祈り、そしてこの身を使って働き、
人の喜びを得る様な努力をなさいとおっしゃるんです。
その人の喜びは、今度は自分の喜びが倍になって返ってくるのです。
そしてまた二人の人を喜ばせたら、二人の人の喜びは、
自分の喜びが三倍にもなって返ってくるのです。
三人を喜ばせれば、
その倍も四倍も五倍もの大きな喜びとなって自分に返ってくるのです。
これが、因縁因果の法則に則って必ず自分が幸せになる法なんです。

人の喜びを本当に喜ぶ自分の心にならなければ喜びが、
だんだんだんだんふくれあがって、大きくなるという事はないのです。
人を喜ばす為に自分が努力し、そして自分を忘れて人の為に、
一生懸命祈るという事は、その心をじっとご覧になられて、観世音菩薩が、
その相手の喜びと自分の喜びとを加えただけの大きな喜びを返して下さるのです。

人の喜びを喜ばない心は、自分の喜びを与えて頂けない狭い器なのです。
自分が無限に幸せになりたければ、無限に人の喜びの為に祈り、働き、努力して、
自分を捨てて人の為に人の為にと尽くす事が、天より与えられる自分の幸せを、
どんどんどんどん倍加する事となるのです。

みんなの狭い心は、自分の幸せになりたいばっかりに、
自分を幸せにしない相手に不平不満、そして満たされない、
自分の心を悟れない内に、舌根の悪の限りを撒き散らして、
この無垢清浄の空間を汚してしまうんです。

この大気とは、全部神仏のお在します無垢清浄の浄土なんです。
それを自分の悪念によって汚すという事は神の世界を汚す事となるのです。
その神罪は、倍にも三倍にもなって返される事、これは厳然とした法則なのです。

つまり法を犯し、仏を犯し、そして自分の安穏を証明される事は、
絶対にない訳であって、この無垢清浄の世界において頂いて、
そしてまた無量の御神力を以て、大きな愛に包まれて、
この命与えて頂いているのに、その大恩を知らないばかりに、
仏の御子である人の悪口雑言いやほどこの清浄の空中に吐き散らし、
また、不平不満の悪念をどんどん空中に発散させて、この清浄の大気を汚す罪は、
未来永劫許されないものであるとしっかり悟らなければ、
己れの罪障とはどういうものかという事は、全然悟れない訳なんです。

過去から何遍も何遍も生まれさせて頂いて、その生まれる度に、
この大気をどれ程汚し、汚した事でしょう。
人の憎しみ、恨み、怒り、それをさんざんに受けて、そして自分もそれに反発して、
この清浄の大気を限りなく汚しておいて、何のお詫びもなく、
平気でこの世で幸せを求むる心の厚かましさ、
まずそこに自分が気が付く事が過去世の懺悔となるのです。

現在の自分を考えると、過去の自分なんです。
今、自分が今日一日生かせて頂くこの大恩に、
どれだけ報い奉る事が出来てるでしょうか。
また、それぞれの使命を頂いて、
仏の御使いとしてこの世に出て来ている人々を、どれだけ悪念をもって報い、
どれだけ不平不満、愚痴、そして悪口雑言を吐いた事でしょう。
それは、全部この無垢清浄の仏の浄土であるこの空間を、際限もなく汚し、
はばかる事を知らない自分である訳なんです。

考えてください。過去の罪障とは今の自分の心を深く深く省みて、
この悪念を全部過去世にこの浄土である大気に、
全部撒き散らしてきた自分なんです。
その報いが来ない筈はないとはっきり悟る処に、
過去世の因縁ここにいつ何時時期を得て、
自分の身に降りかかるか分からないという危険極まる人生なんです。
今日安穏に済んだので、明日も明後日も明々後日も平気で自分の楽しみ、
欲望それだけを追い求め、自分の意にあわないものは全部、
悪口雑言吐き散らせて、仏の御子にどれだけ邪な念を送った事でしょう。

そして、その自分の悪念で仏の浄土であるこの大空を、
どんなに汚して来た事でしょう。
勿体無いそれ程の大罪を犯していながら、
尚今日健康にしてつつがなく守り頂く事の大愛を、受ける資格があるでしょうか。
誠にまことに申し訳ないこの心、この心の波動が、
この無垢清浄の大気をそれ程汚したればこそ今その大気を受けてここに、
子供、弱い者、本当に哀れな者程その悪念で、
不幸へ不幸へと押しやっている罪、それを考えてみる時に、
自分が今日平安で何不自由なくおいて頂くこの大恩に報い奉る為には、
一人の人の幸せの為にでも一生懸命努力しなければ、
この懺悔と、そして感謝とは受け取って頂けない訳なんです。

マザーテレサの御生涯はまさにその為で、
我々に本当に人の幸せを計る事が本当に、自分が神となる道ですよ、
と教えて下さってる、生ける神なんです。
私達は一人の人の喜びにでも一生懸命努力して、この身を惜しまず、
尽くす事が過去世に汚した無量の大罪を、
少しでも自分の人を思いやる善念で清めて、お詫びとする事なんです。

過去世にどれだけこの仏の浄土である大空を汚し、汚し、
本当に申し訳ない程の悪業を積んできて、
尚今日こんなに幸せに生かせて頂く事の申し訳なさを、
しみじみと一度は悟ってみる事です。
それが、この命を本当にありがたく生かせて、
今世に本当に平穏に生涯を送らせて頂く、
観音様のお守りを頂く値打ちのある自分となる事なんです。

今地球上で人の心がもう、荒れ乱れ、
子供が手のつけられない様な悪事を働く恐ろしき修羅場にしたのは、
全部我々が吐く、人に対する悪念、それがもうこの清浄の大気を汚して汚して、
この汚れきった大気を吸う、子供達が清らかな心を、悪念で汚して汚して汚して、
何の清らかさもなくなった現実となって現れてる訳なんです。

我々が今ここに生きている事は、この大気をまず清浄にしなければ、
自分の心の清浄な念で、この汚れた大気を清めなければ、
生かせて頂く価値は絶対無いという事をしっかり悟る処に、
生涯を安穏に何の災いもなく、生かせて頂く秘訣なんです。

そして、人の幸せの為人の幸せの為、人を喜ばす為に生きる事が、
自分の喜びとする処に、善因を毎日毎日毎日積んで、最後の善果を得る、
つまり寂光浄土に迎え頂く事の出来る人、仏となるの道であるんです。
せっかく、この神や仏と同じ姿の人間に生まれさせて頂いたからには、
必ずこの肉体の現世に生きてある間に、仏の座を得られなければ、
未来永劫成仏は成り得ないのです。

この肉体こそ、我が身成仏にさせて頂く唯一の修行なのです。
その事をしっかり悟る処に、仏道の本当の真価があらわれる訳なんです。
我、成仏を成さずして、人間界の寿命、只、塵芥の如く為しては、
絶対申し訳ない事であると、しっかり悟って頂きたいと思います。

合掌


法話集

TOP