今月の法話
菜の花  ここでは当道場で観音様より賜りました
 お言葉を掲載致します。
 

 (2023年3月1日掲載)
真の修行

人間とは常に知らず知らずに人の心を傷付けて平気で、
又してもその言動を重ね、
それがどんなに自分自心の罪罰(とが)となって、
魂の垢となり汚れとなって、
自分自身を地獄に落として行っているという事に気付かぬものであります。

それ故に、不幸が襲って来た時、
いつも「私は何の悪い事もしていないのに、
なぜこの様な目に遭わねばならないのでしょう」と、
人を恨み神仏をさえ無きものとしてしまうものであります。

修行とは此処であります。
「人を見る事仏の如く、衆生を見る事父母の思いの如くせよ」と、
仏様は御諭し下さっているのであります。
相手を仏と拝む心があれば、失礼な言動は出来ません。
又、父母の様に思えば冷たい仕打ちは出来ないでありましょう。

常に自分の言った言葉、行った行動に対して、受取る相手の心を計り、
一つ一つに反省して、もし自分がこの様な事を言われたり、
されたりした場合、自分はどんなに思うであろうかと、
相手を自分に置き替えて反省してみる事が、
最も手近かな修行であります。

御経を読誦する事は、その中に諭されてある御仏の御言葉にあてはめて、
自分の言動にあやまちなき様、心して生活してゆく事でありまして、
只棒読みに何万遍あげましょうとも、自己反省なく、
読むだけでは魂の向上はあり得ません。

つまり修行とは、人にもまれもまれて自己反省し、苦しい時、
辛い時には深く御詫びする心に目覚めてゆく事であります。
人の心を傷付けて平気であった自分を、
これではいけないよとの御諭しが、
人に傷付けられた自分自心への警鐘であります。
恨むなら己れを恨めよとの深い深い
温かい温かい御仏の大慈大悲とは、此処にこそあるのであります。

此の知らず知らずに、気付かぬままに重ね重ねて来た罪障が、
長い長い輪廻の度に、次第次第に自分の魂を汚して、
遂に今日の盲同然の、
無反省なしたたかさとなって不幸を招いたものであると分って見ますと、
今日身に受ける因果とは、
すべて自分の作ったものであると目覚めてゆくのであります。
この目覚めが救いの元となるのであります。

振り返り見て、取りもどす術なき自分の罪障の恐しさに、
目覚めてみて初めて許して頂く為には、
是非、御神仏の御慈悲にすがるより他ないと分って来ます時、
人は初めて、「お許し下さいませ」と、
深く深く額づく事が出来るのであります。

此処から下座の行が始まるのであります。
何人に対しても悪しき言動は出来ないと、
自分自心によくよく言い聞かせ、人を傷つけ、
自分の魂を汚すような傲慢さを無くし、
誰に対しても仏と拝む事の出来得る自分を作って行く事が、
修行なのであります。

修行とは一見やさしいようで、
なかなかに四六時中自分の心中を監視して、
厳重に警戒しながら暮してゆく事は、容易な行ではないのです。
山にこもり、滝に打たれてする荒行も修行ではありますけれど、
この娑婆の中で、常に人にもまれて仏心を持って生きてゆく行こそは、
尚一層の難行であります。

在家仏教のむずかしさは此処にあるのでありまして、
それ故にこそ尚一心にすがり奉り、
必死で自己と戦いながら打ち勝つ修行故にこそ、
一心にすがり奉る心の真実にお応え下さり、
お助け下さる御仏の有難さがしみじみと悟られるのであります。

照真正道会に鎮座まします、
御聖師観世音大菩薩様の澄み切った美しい御声を、
拝聴いたされる皆様方こそ、世にも稀な方々と存じます。
このように、御仏が美しい御声で御読誦あそばされます御霊声を、
肉耳で拝聴出来得る所など、おそらく滅多にないと思われます。
それは此処にこそ真理があり、
又、実際に行じゆく救われの道を正しく御教え下さる、
御聖師観世音大菩薩様の御直々の御霊諭を以て、
導いて頂けるという証明を、
観世音大菩薩様御自ら遊ばして下さっている事であります。

さればこそ、現世に生きて証明下さる御仏の在しますことを、
固く信じ奉り、為し難き行なれども、断じて行う決意を以て、
一歩一歩成仏の道に邁進していく事こそ、
現世に生きる身の真の功徳と感謝して精進する心には、
病魔も寄せ付けない強い体を作る事ともなるのであります。

「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」とは、
この事を申すのであります。

合掌


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