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仏を信じるが故に師を尊ぶのである。修行の真価とはここにあり。
形ばかりにこだわりて、師を師とも思わざる言動においては、
何の修行の価値もなし。
親、親たらずとも子、子たるべしの如く、例え、師、師たらずとも弟子、
弟子たらざれば、弟子にはあらず。
師弟の義とは永遠なり。
親子の義を越ゆるものにして、親とは身体を生み、育み下さるる、
人間第一の恩人なり。
されど師とは、人、本来の真我たる霊魂の目覚めを得させ、
育み下さるる親以上の大恩人なり。
この悟り、得られずんば、弟子たるの価値なし。
その修行は形ばかりにて、絵に書きたる餅に過ぎず。
肉体ありて、魂正しからざれば、人間たるの価値は無し。
さればこそ、人、人たるの真髄を育み下さるる師の御心労、
いかばかりなりやと推量致し得るは、己れ行なりて、魂目覚め得て、
初めて成し得る事なり。
さればこそ、最後の修行たる密教においては、
師は絶対なりと命ずるものなり。
たとえ、白を黒と言われようとも、弟子は皆、
それに従う事を絶対なりと命ずるものなり。
密教の諸流に別れたる所以、ここにあり。
さればこそ、同志たるの資格有りや無しやと、各人自らの心に問うべし。
師は仏の使いにして、無知なる己れに御仏の存在を知らしめ、
近づかしめんと、様々に心砕き、陰より祈り、表に様々なる方便を以て、
赤子の如き己れを導き育て下さるる事の、
大慈悲心に何を以て報いんといたせしや。
師は絶対なりとの義を心得ありや。
情けは父母の如く。教えは仏の如く。
溢るる情けありて、厳しく戒めらるるを真に悟りて、いくばくの感謝ありや。
報い奉らんの決定に、到達成すべき修行なりや。
無駄に心身を浪費致して、
さて、何の取柄も無き己れとは成り下がりおらざるや。
修行とはまず、師に仕うる事、仏に仕うる如くなすこと第一なり。
しかして、己が心をしかと仏に結び下さる師の御教えに、
絶対服従すべき事なり。
いたずらに次元低き己が心に計りて、
批判致すが如き下根のものとなりては、悪修行なり。
同志一同の者よ。汝等を力と頼みて、己れに恥じざる様、
人知れず修行いたす師の心情哀れと思うが故に、
観音あえて申すなり。
汝等師に対して、あまりに無礼なる己れとなれるを知らざるや。
深く反省致すべし。
一度は許しおくなり。されど、二度は許さざるなり。
さもなくば、照真正道会、ただの外道と成り下がるなり。
即身成仏の実、かならず顕現致しくるるべし。
合掌 |


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