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人は皆、自分の力で生きていると思っていますが、
人間と申す者は、それはもろいものです。
例えば、神経が一つちょっと違うと、もう自分自身を見失い、
何が何だか分からないようになってしまいます。
気が狂うとはこのことで、人間の力ではどうにもならない、
蓄生以下の生きものとなってしまいます。
それでも人は、自分程偉い者はいないくらいにうぬぼれているのです。
神も仏も知らぬということの恐ろしさを考えてみますと、
一寸先は闇でありますが、今日ただいま健康で幸せであれば、
明日も、明後日も、永久にこのまま幸せであると思いがちであります。
それはちょうど盲が杖をなくしたように、
あぶない人生であるとも知らず、自分が自分がと、自我の固まりの心が、
やがて体を膠着させて、身動き出来ない老後となるのです。
また、目先の見えない盲同然の自我で突っ走るから、
他人と衝突し、つまり因縁と戦う人生には、不意の事故、
災厄の、いつ何時待ちかまえているかも分らない、
危険な綱渡り人生となっているのにも気が付かないのです。
御神仏の御目から御覧になられては、ハラハラの連続ですので、
御守護神はいつもいつも御注意して下さっていますのに、
ちっとも耳を貸そうとしないから、
丁度三つ子が親の手を振り払って車道に走り出る様な、
向こう見ずの日々を送っているのであります。
それ故に、確かな安全な人生を送ろうと思う者は、
常に神仏に守られ、導かれ、
危険から逃れさせて頂ける様な指針を持たねば、
絶対に安心な生涯を送る事は出来ません。
常に見守っていて下さる御守護神の御言葉に従う心とは、
常に自分自心を振り返り見て、自己反省し、
一日の無事を感謝する為には、
いつも人に悪い感じを起こさせない様に細心の注意をして、
悪舌を吐いたり、
悪事を働く様な心を起さない自分となる為の修行こそ、
幸せの根本である事を、しっかと悟らなければなりません。
その修行こそが信仰であります。
親が我が子をいつも案じ、見守る様に、
御神仏は四六時中私共を見守っていて下さるのですが、
私共は、肉眼に見えないものは一切分らない盲同然ですので、
なかなかにその御存在が信じられなく、在ると聞かされると、
それでは何でも御願い出来ると、甘え心が先に立って、
乞食の様に頂く事ばかり考えがちの、
幼稚な心しか持っていないのは、何と情けない事でありましょうか。
神仏とは、先ず自分の心を反省して、照らし見るべき存在なのです。
曇りのない心に、恥ずかしくない自分であって初めて、
歩んでゆく人生の、安全な指針が分って来るのであります。
そこに御神仏は、絶対の御存在として在しますのでありまして、
一歩一歩進んで行く先々の、安全な幸せを示し導いて下さる事を、
はっきりと分らせて下さるのであります。
自我の固まり、欲の先走りでは、
神仏の御存在は絶対に分らないのであります。
先ず、自分自身の固い自我の殻を柔らげる為に、
御先祖という最も身近の霊に近づこうとする手始めが、
先祖供養なのであります。
その先祖にも近づけない程の、固い殻をかぶっている者には、
目覚めを起こさせる為に、身近の肉親を死の彼方に逝かせて、
目先から消してしまわれるのであります。
目に見えなくなった肉親を追い求める心が、
先祖供養となって現れてくるのであります。
肉親を思う悲しみが、やがて合掌となり、自己反省となり、
神仏にまで結びつく様になってゆく訳でありまして、
此処から初めて人間本来の真にかえる目覚めが始まるのであります。
これからが、真の信仰となってゆくのであります。
肉眼に映らないものを信じる事の難しさは、
自分自心の目覚めから起こさなければ、到底達成されない事であります。
そこで、心の目覚めについて一番手近の方法が、瞑想であります。
日々の瞑想に、自分自心の本当の姿を見つめて知る時、
人は初めて闇を知り、光を求める心となるのであります。
その光こそ、神であり仏であるのです。
御姿なき御神仏は光なのです。
闇の心を照らして下さる光こそ、神仏なのであります。
一切の闇である迷いや、煩悩強欲の間違いを諭し、
振り返える余韻を与えて、ハッと目覚めさせて下さる光こそ、
御神仏なのであります。
照真正道会に、いつも照らされて現われ給う光こそ、
此処に厳然として観世音菩薩の在します証明であります。
一人一人の肉眼にはっきりと見せて頂いて、尚信じられない者は、
何と自分の殻の固いことよと反省しなければ、到底救われない程に、
自分が神仏から遠いのだと思わなければなりません。
こうして、自分を反省し、御詫びし、正しい道を求めて進むことこそ、
真の信仰でありまして、
この正しい道より他に、人間の救われる方法はないのであります。
ここから初めて、無力な私共が、神仏の偉大な御力に守られて、
安心の人生が送られるのであります。
一切の不幸や災難は、自分をつけねらう因縁に負ける事です。
信仰とは、負けない強い自分になる事であります。
その負けない強い自分になるまでは、常に神仏に守られる様、
一心に祈り、縋ってゆかなければなりません。
合掌 |


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