今月の法話
ひまわり  ここでは当道場で観音様より賜りました
 お言葉を掲載致します。
 

 (2022年8月1日掲載)
信仰は心なり

信仰は心なり。 
魂なり。   
霊なり。   
目に見えざる神の霊波を心に感じ取り、魂に受け取り、
霊に感応して一体となり得る道が信仰なり。

されば「信」の一字とは絶対なり。
例えば、未だ科学的に証明いたされざりし時期には、
空気などと申す物質の存在は信じられざるものなりしなり。
人は空気を呼吸して、初めて生きらるるなどとは、
考えも及ばざりしものなり。科学で証明いたされて初めて納得し、
当然のことと思わるるまでに至りたるものにあり。

神仏とても同様にして、人は肉眼に映じ、
肉体に感じて初めて納得いたすがごとき、霊能を失いてより、
動物にも劣るがごとき次元となり下がりたるを悟り得ざれば、
自らの霊能力の無限なるをも悟り得ざるものなり。

神仏に感応なすとは、神の分身なる己れが、
本質の無限能力なるを知る事なり。

物質文明未だ開けざりし時代に於ては、心の在り方は素直にして、
いと自然なる生業順応いたしたるが故に、
自然即神なる原理に溶け込みて、
人は神たるの霊能も自然に発揮いたされしものなり。

されば自らの死も自ずから、自覚なし、
如何にして生を全う為すべきかをも自然に悟り得て、
神と共なるいと敬虔なる信仰に明け暮れ、大自然の淘汰のままに、
自らの生命をゆだね得たるものなれば、
何事にもまず頭脳より霊感において知り得たれば、
過ち無く先見の明を得たるものなり。

只今文明文化の発達は、頭脳において解明いたさるるが故に、
人は頭脳にのみ頼りて、己が霊たるの本質すら忘れ、
まして神の存在など、否定いたすがごとき、下劣の輩となり下りたれば、
一朝大自然の偉力の前には、茫然として、
なすすべ知らざる無能をばさらけ出すものなり。

天災地災、皆前ぶれをも察知でき得ぬ無能力者となりて、
不意を突かれ如何にも為し難き、
己が総てをもぎ取らるるがごとき悲惨をも、あえてなさしめらるるは、
神の怒りにして、御悟しのいと厳しきを悟り得ざれば、
救い様なき人生を終りて尚、無限に続く魂の改悔、
即ち無間地獄とは、自らの作せる業なり。

されば信仰とは神の御前に、いと従順なる己れを改造いたすことなり。
いささかの頭脳にうぬぼれる事なく、素直なる己れを取りかえして、
自ら霊の感ずるままなる無限能力を悟り得て、発揮なし得る道が、
即ち神と共なる信仰と申すものなり。

合掌


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