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信仰は心なり。
魂なり。
霊なり。
目に見えざる神の霊波を心に感じ取り、魂に受け取り、
霊に感応して一体となり得る道が信仰なり。
されば「信」の一字とは絶対なり。
例えば、未だ科学的に証明いたされざりし時期には、
空気などと申す物質の存在は信じられざるものなりしなり。
人は空気を呼吸して、初めて生きらるるなどとは、
考えも及ばざりしものなり。科学で証明いたされて初めて納得し、
当然のことと思わるるまでに至りたるものにあり。
神仏とても同様にして、人は肉眼に映じ、
肉体に感じて初めて納得いたすがごとき、霊能を失いてより、
動物にも劣るがごとき次元となり下がりたるを悟り得ざれば、
自らの霊能力の無限なるをも悟り得ざるものなり。
神仏に感応なすとは、神の分身なる己れが、
本質の無限能力なるを知る事なり。
物質文明未だ開けざりし時代に於ては、心の在り方は素直にして、
いと自然なる生業順応いたしたるが故に、
自然即神なる原理に溶け込みて、
人は神たるの霊能も自然に発揮いたされしものなり。
されば自らの死も自ずから、自覚なし、
如何にして生を全う為すべきかをも自然に悟り得て、
神と共なるいと敬虔なる信仰に明け暮れ、大自然の淘汰のままに、
自らの生命をゆだね得たるものなれば、
何事にもまず頭脳より霊感において知り得たれば、
過ち無く先見の明を得たるものなり。
只今文明文化の発達は、頭脳において解明いたさるるが故に、
人は頭脳にのみ頼りて、己が霊たるの本質すら忘れ、
まして神の存在など、否定いたすがごとき、下劣の輩となり下りたれば、
一朝大自然の偉力の前には、茫然として、
なすすべ知らざる無能をばさらけ出すものなり。
天災地災、皆前ぶれをも察知でき得ぬ無能力者となりて、
不意を突かれ如何にも為し難き、
己が総てをもぎ取らるるがごとき悲惨をも、あえてなさしめらるるは、
神の怒りにして、御悟しのいと厳しきを悟り得ざれば、
救い様なき人生を終りて尚、無限に続く魂の改悔、
即ち無間地獄とは、自らの作せる業なり。
されば信仰とは神の御前に、いと従順なる己れを改造いたすことなり。
いささかの頭脳にうぬぼれる事なく、素直なる己れを取りかえして、
自ら霊の感ずるままなる無限能力を悟り得て、発揮なし得る道が、
即ち神と共なる信仰と申すものなり。
合掌 |


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