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一切の物に生命があります。
例え瀬戸物の様なもの言わぬ物にも、
その物の役目果たさんとする命の切実なる願いがあります。
それは、それぞれの作られた目的、即ち役目役目がありまして、
その役目を果たす事によって、命は脈々と生きるのであります。
それ故に例えば、お茶碗一つにしても御飯を盛って頂く事によって、
お茶碗の役目は生かされ、その盛られた御飯を頂く人の心によって、
そのお茶碗の価値がまた、それぞれに違って来るのであります。
このお茶碗あればこそ、食事が出来るとおし頂いて用いる心は、
役目を果たすお茶碗の心に、
生き生きと通じて命の躍動を感じるのであります。
それは、お茶碗自身の土にも、
またそれを作った人の心にも通うものであります。
そしてそれはまた、自分自身に感謝となって返って来るのであります。
木でも土でも石でも紙でも、この様に心の通い合うと言う事は、
すべてこれ、元は皆神の御心によって現されたものでありますから、
神の心に通じてゆくからであります。
それ故に、心なく見える、この様なもの言わぬ物でも、
すべて役目を果たそうと一生懸命であります故に、
その一心を理解して、尊く ありがたく用いるところに、
人の役目があるのであります。
茶人がお茶碗を大切にする心は、そのお茶を飲むだけのものとはせず、
お茶碗自身の姿、形から土の温もり、
作者の心にまで深く心を注いで愛してゆくところに、
お茶の美味しさを深く深く味わっていけるのであります。
このもの言わぬ物に通じて深くいたわり、
愛し、心をかけて感謝するところに、
人の心を喜ばしめ、温め、慰め、いたわり、
また励ます偉大な力を発揮させてくれるものであります。
これが、目に見えない神の心を感じとる事のでき得る事でありまして、
人の心に宿る神の心を感じ得るものであります。
人と神との交流は、ここにもまた有るのでありまして、
それが用いる人の心に悪念を呼ぶものとなれば、
人と悪魔との交流に変わるのであります。
例えば、虚栄のために巨万の財を積んで買ったとしましても、
自分の心の驕りの為に用いたり、
また金儲けの為に人をだます道具としたりなどと、
神の御心に反した用い方をすれば、
せっかくの神の恵みも悪魔の餌食となって、
かえって世の中を乱すものとなるのであります。
それ故に、心なく見えます物も、それを用いる人の心によって、
神の使いともなり、また悪魔にも変化してゆくのでありますから、
私共の心とはただ自分一人の為に、
どんなに全てのものを支配しているかと言う事を深く深く考えて、
この世のもの全てを、神の使いとして用いる事の出来るような、
心がけを忘れてはならないのであります。
万物全て神の御心によって地上に現されたのでありますから、
私共人間の心によって、
それらを全て神の命と悟って使わせて頂くところに、
その物の生命を真に生かせてゆく事となるのであります。
合掌 |


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