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人の言動に惑わされて肝心の神を見失いて、
自分が何の目的で此処に来ているのかを分別出来なくなる事は、
あまりに愚かな事でありまして、
自分の小さな心で物事を見るが故に、
他人の言動を自分自身のはかりで計って、
しかもそれが観世音大菩薩の聖堂で行われる事を見聞きして、
その者自身の間違いと分別出来ず、
教えそのものが間違っている様に思う事は、
自分の小さな器で神を計る様な愚かな物の考え方であります。
此の道場は小さくて、他の立派な新興宗教の様に、
大勢の信者が集まる大講堂ではありませんが、
観世音菩薩様が厳然と在します事は、皆様の肉眼に、
はっきりとその実体である光明を現して、御見せくださっているのです。
他の宗教の集まりとの違いを、ここにはっきりと分別しなければ、
間違った言動をする事は、
御本尊に対し奉りどんなに御無礼となるかを考えた時、
この誤りはいくら御経を上げてみた所で、
その効果は現れないはずであります。
先ず自分の姿勢を正して、御神仏に対し奉って、
申し訳ない言動をしていないかどうかを常に反省して、
いつもおわびの懺悔と改悔の行に打ち込み、
過ちは小さい間に直して行く心掛けでなければ、
過去から持って来ている現在の汚れた自分を浄めて行く事は、
到底出来ないのであります。
それ故に御本尊の存在を忘れて、
同行の者の悪をのみ見聞きして、自分なりに勝手な批判をして、
迷う様な愚かな心ではあまりに恥ずかしい自分であって、
信仰の本道をはずれてしまった心であると気付かねば、
神や仏にならねばと教え下さる教理の本道が、
分るはずはないのであります。
せっかく生きて在します観世音大菩薩を尊師と仰ぎ奉り、
直々御教え頂ける様な、
稀な道場に入る事が出来た自分の果報を喜ばずして、
他人の悪いところにばかり目をつけて、
御教え下さる肝心の観音様を見失っては、
此処に求道してくる意味は全くないと申すより他ありません。
真の修行とは、現在の様な汚濁に満ちた世の中で、
汚れに染まらない蓮華の花の様に、
しっかと自分の魂を浄化して行く事が、
真の修行なのでありますから、
汚れた他人の悪い所にばかり心を奪われて、
自分自身を失くする様な事は、
又しても自分を亡者とすることでありまして、
悟りなど到底出来ない闇に彷徨わねばなりません。
御本尊は私共の尊い師であらせられ、御直々に教え給わる御教えこそ、
私共が遵奉して精進努力し、身にも心にも頂いて、
成仏しなければならない現世唯一の正道なのであります。
共に修行の道程にある信者には、
未だ神仏とはなっていないのですから、
迷いの間違いは多々あるはずです。
批判する前に自分を反省して、人の過ちを自分は踏まないようにと、
自分自身の反省の糧として自分を磨いてゆかねば、
批判して自分を見失い、御尊師を忘れて道場を去る様な事では、
とてもとても、真の信仰は出来ない小さな器であると、
悟ねばならない処であります。
合掌 |


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