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年寄りだからこそ、若い人より立派でなければ恥ずかしいではないでしょうか?
幾多の経験を経て心を鍛え、魂を練って、人生の尊い体験を、
今こそ後から続く若い人々に良き教訓として教え導いて、
人生の指針となるべき年長者であれば、どんなに人々に重宝がられる事でしょう。
たとえ体は老衰して体力は衰えても、気力と豊富な体験上の教訓は、
立派に世の為、人の為に役立ち、
生きて甲斐ある晩年を豊かに送る事が出来ますものを、老いに甘えて、
若い人々の荷厄介となる様では、
折角長生きしたその甲斐はないと申すもので、
この人生をただ徒に意味なく過ごした天罰は、衰えた身体の空しさと、
思う様にならない不平不満の愚痴と、希望無き晩年のやるせなさ、寂しさと、
前途の不安と死の恐怖におののき、身の縮む思いの日々は、
さながらこの世の生き地獄であります。
この様な老人を、誰が敬愛の心を寄せてくれる事でしょう?
我が子にさえも愛想を尽かされ、
孤独の寂しさは一入に我が身をもてあます思いでしょう。
それでも、霊界にも引き取っていただけず、
老人ホームに伏してかこつ身となっては何で長命が喜ばれましょうか。
生きて甲斐ある命とは、生きただけの豊かな知恵と、
何人をも温かく包みゆく大きな愛とを、
万遍なくそそぐ事の出来得る日々であってこそ、
人々から尊い命と敬われ慕われて、楽しく心満たされた晩年を過ごす事こそ、
神仏に愛でられる命であり、これこそ生きて甲斐ある命であります。
「敬老」とは、この人生の晩年をこそ、
若い人々に称えられる言葉だと申すべきであります。
さればこそ、いつの日かやがて老人の日を迎えねばならない若者達は、
今こそ必死で、その晩年の為に価値ある日々を送らねばならないのです。
神に仕える事は人に仕える事、
仏を知る事は堪え忍ぶ心から湧き出でて来るのであります。
人知れず仕えゆく事は忍辱の行であります。
忍耐は人に鉄石の信念を植え付けます。
この信念こそ百万力の力です。
何者をも恐れず、何者にも負けない不屈の信念こそ、神仏の力であります。
この信念から湧き出でて来る智慧こそ絶対の力となって、
どんな不幸からでも這い上がる事が出来ます。
つまり、不幸を幸福にする道は、この不屈の信念あるのみであります。
この信念を養う行こそ信仰であります。
神仏を目標として、絶対に正しい道から外れない心の誓いこそ、
不屈の信念となって、目には見えない大威力に導かれ、
守られて知らず知らずに偉大な自分を作って行くのであります。
それが正法の功徳であります。
合掌 |
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