今月の法話
うぐいす  ここでは当道場で観音様より賜りました
 お言葉を掲載致します。
 

 (2022年2月1日掲載)
敬老とは

年寄りだからこそ、若い人より立派でなければ恥ずかしいではないでしょうか?

幾多の経験を経て心を鍛え、魂を練って、人生の尊い体験を、
今こそ後から続く若い人々に良き教訓として教え導いて、
人生の指針となるべき年長者であれば、どんなに人々に重宝がられる事でしょう。

たとえ体は老衰して体力は衰えても、気力と豊富な体験上の教訓は、
立派に世の為、人の為に役立ち、
生きて甲斐ある晩年を豊かに送る事が出来ますものを、老いに甘えて、
若い人々の荷厄介となる様では、
折角長生きしたその甲斐はないと申すもので、
この人生をただ徒に意味なく過ごした天罰は、衰えた身体の空しさと、
思う様にならない不平不満の愚痴と、希望無き晩年のやるせなさ、寂しさと、
前途の不安と死の恐怖におののき、身の縮む思いの日々は、
さながらこの世の生き地獄であります。

この様な老人を、誰が敬愛の心を寄せてくれる事でしょう?
我が子にさえも愛想を尽かされ、
孤独の寂しさは一入に我が身をもてあます思いでしょう。

それでも、霊界にも引き取っていただけず、
老人ホームに伏してかこつ身となっては何で長命が喜ばれましょうか。

生きて甲斐ある命とは、生きただけの豊かな知恵と、
何人をも温かく包みゆく大きな愛とを、
万遍なくそそぐ事の出来得る日々であってこそ、
人々から尊い命と敬われ慕われて、楽しく心満たされた晩年を過ごす事こそ、
神仏に愛でられる命であり、これこそ生きて甲斐ある命であります。

「敬老」とは、この人生の晩年をこそ、
若い人々に称えられる言葉だと申すべきであります。

さればこそ、いつの日かやがて老人の日を迎えねばならない若者達は、
今こそ必死で、その晩年の為に価値ある日々を送らねばならないのです。

神に仕える事は人に仕える事、
仏を知る事は堪え忍ぶ心から湧き出でて来るのであります。

人知れず仕えゆく事は忍辱の行であります。
忍耐は人に鉄石の信念を植え付けます。

この信念こそ百万力の力です。
何者をも恐れず、何者にも負けない不屈の信念こそ、神仏の力であります。
この信念から湧き出でて来る智慧こそ絶対の力となって、
どんな不幸からでも這い上がる事が出来ます。

つまり、不幸を幸福にする道は、この不屈の信念あるのみであります。
この信念を養う行こそ信仰であります。

神仏を目標として、絶対に正しい道から外れない心の誓いこそ、
不屈の信念となって、目には見えない大威力に導かれ、
守られて知らず知らずに偉大な自分を作って行くのであります。

それが正法の功徳であります。

合掌


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