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邪霊は人をおだててもち上げて、
昇りつめたところで地獄の底に突き落して、
その苦しみを楽しむものです。
人よりは少しくらい優れているからと申して、
神仏より見れば何程のものでもありません。
たかが人間なのです。
どんぐりの背くらべを少しくらい、
高いからとてほこりに思う心は、
すでに邪霊に取りつかれていると気付かねばなりません。
何故ならば過去無量劫という数え切れない程の、
大昔からすでに仏様であられた御釈迦様でさえ、
人間としてこの世に御生まれあそばされたからには、
御悟りを開かれ給うまでには、
六年という長きにわたって絶食をあそばされ、
菩提樹の下でじっと瞑想あそばされて、
死の寸前に至るまでの御修行をあそばされたものなのです。
それは人間と申す者は、
過去世からの無量の罪業を持って生まれているから、
命がけの修行をしないと成仏は出来ないものであると、
御自らの御体をもって私達凡夫にお教え下さった、
尊い御教えなのであります。
まして我々のような業の深い者が、
ちょっと人より頭が良いからとか、
お金があるからとか、地位が高いからなどと、
おごる心は自分がそれだけ上を知らない愚か者である証拠なのです。
そこで信仰とは、
その自分を神や仏のような、
はるかに高い境地の次元にいらっしゃいます御方とくらべて見て、
何と汚れた、醜い自分である事かと、
まず自分自身のいたらなさを知る事が、第一であります。
その見くらべる方法が修行なのです。
御神仏とは御自分を偉いとか、金持ちとか、
微塵も考えていられません。
只すべての人を救いたい、
一人あまさず神や仏のような安らかな境地、
豊かな愛に目覚めさせてやりたいと、
全人類の事のみをお考え下さって、
御自分の事など微塵も思われない御心の方なのです。
人間はどうでしょう。
まず自分が第一に大事なのです。
我が子でさえ、自分のものだから可愛いがります。
自分の為に役立てようと一生懸命です。
育てて頂いた親への恩返しに、
子供を養育しているのだとは考えられません。
何と浅ましい恩知らずでしょうか。
その心故に、自分が親にして来たように、
子供もまた自分にして返します。
親不孝と罵られますか?
これは因縁因果の理法なのだと御仏は諭されます。
まして人と人の間では、たえず背くらべです。
人よりは自分は上だと、うぬぼれます。
そして自分を増上慢という悪魔のとりこにしてしまっている事も分らない盲にして、
遂に落とし穴にはまってしまうのです。
それ故にたえず自分自心を振り返りみて、
増上慢になっていないだろうかと、
反省しながら一歩、一歩向上してゆくところに、
神や仏への道が開かれるのです。
それにはたえず静かに人の言葉に耳をかたむけ、
諫言には頭(こうべ)をたれて反省し、
又甘い言葉には乗らない強い自分を作ってゆく事が、
修行なのであります。
ちょっと人からほめられるとすぐに乗ってしまって、
いかにも自分が偉いように思う心とは、
すでに邪霊にとりつかれている証拠であると、
反省しなければ到底自分の汚れを洗除するなどという事は出来ません。
神仏は常にきびしく、悪魔はいつもやさしく、
耳にも身にも心よいものだと、
しかと胸に刻み付けておく事が、修行の第一であります。
合掌 |


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