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あらゆる縁とは決して偶然のものではありません。
善い縁、悪い縁、それらは皆選択は自分でするのでありますが、
その自分をあやつるものは、皆裏にある御先祖であります。
それに加えて、自分自身の過去の因縁によるものでありまして、
例えば、この縁は悪縁であるから早く切らねばいけないと、
御先祖が必死で教えられ、又切ってやろうとしていらしても、
自分自身の内にひそむ過去の因縁がそれ以上に強い力でそれを邪魔し、
阻上しようとする時は、なかなか容易に断ち切れるものではありません。
そこで神仏の御力におすがりして、
自分自身の心の中にひそむ悪因縁を浄化してゆけば、
次第次第に自分の心が清まるにつれて、
その悪因縁は遠ざかり、ついに消え去るものであります。
それ故に一口に縁と申しましてもいろいろの縁がありまして、
夫婦の縁、親子、兄弟、姉妹、友人、知人、同僚、隣人と千差万別ではありますが、
一番深いはずの夫婦、親子の場合でも、過去世で敵同志の場合もありまして、
それは互いに苦しめ合う現世の縁として、いろいろの環境に於いて、
いろいろの心の作用を起こし、いろいろの苦しみとなって、
形は違っても心の苦しみは皆同じく、憎しみ、怒り、嫉妬、悲しみ等の一切の苦は、
皆この悪因縁によって起こるものでありまして、
憎しみ合えば合う程に苦しみはわき、怒りの心がつのればつのる程に、
自分自身の血液は濁り、悪血となって自分の体をさえも傷めてしまいます。
悲嘆のどん底に沈む時は食欲もわきません。
これ等は皆自分の心の作用であると悟る時、人は初めて自分の心とは、
即ち自分自身の体をも左右するものである事を分らせて頂けるのであります。
それ故に、常にどんな場合でも、どんな事が起こっても、心にしっかと仏を念じ、
仏の御力によってささえられていると確信する平常心を失わなければ、
どんな事にも心が動揺する事の無い、信念の人となる事が出来るのであります。
この何ものにも何事にもとらわれず、常に御仏と共に在る自分を作る事が、
信仰の修行なのであります。
因縁深い我々が、常に自分を見失う事の無い、
強い信念をつちかう事は容易な事ではありませんが、
観世音菩薩を夢びにも忘れず、常に心に念じて、
自分の言動に深く注意し、人を傷つけたり、怒らせたり、
悲しませたりする悪因縁を作らず、
出す言葉の一言一言は人を喜ばせ、勇気づけ、励ます言葉となり、
仏に仕える如くに人に仕える下座の行に徹してゆく時は、
必ず人から感謝され、敬われる自分なってゆくものであります。
これが信仰の本当の功徳でありまして、お金ができたり、
病気が治ったりする事だけが、決して信仰ではないのであります。
御仏と共にある自分となったときは、
いつの間にかお金も必要な時必要なだけは与えられ、
体は知らず知らずに健康となってゆくものでありますから、
別にこうして下さいなどとお願いする必要はないのであります。
仏様は人間の心の中はお見通しでいられますから、
いつも過不足なく恵まれてゆく、
心身共に円満な環境においてくださるものであります。
合掌 |


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