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悟りとは神の真実なり。
真実とは神仏にささげ奉る唯一の贈りものなり。
故に、その真実に応じて神仏の返し給わる御功徳が悟りなり。
されば悟り無き者は真実無き故なり。
真実無き心とは、己が身の欲のみに没頭いたすが故に、
他人の事には心至らざるなり。
人に心尽さぬ者が、
何じょう人より心尽さるることのあるべきぞや。
己が捧げてこそ、人己れに捧げくるるなり。
ましてや神仏に対し奉りて真実無き心に、
神仏よりの御返しあるべき筈は無し。
如何に形ばかりの行を為すとも、
真実無き心には悟り開かれざる所以ここなり。
されば真実とは?
則ち己れを捨つる事なり。
己れを思う我欲の為に、人は真実を見失うなり。
多千億の仏に仕えて、大清浄の一大御念願を立て給いて、
久遠に御身を捨て給いて、
人の為にのみ尽し給わる観世音を御尊師と仰ぎ奉りながら、
その御身を以ての御教えを、
我が身に実行いたされずして何の弟子ぞや。
我が身の愚かさを悟り、身の不浄を悟り、貪欲を悟り、
如何に下劣の者なるかを悟り得ずして、
何の向上ぞや、進歩ぞや。
清浄となるべき道の分かる筈も無き者の、
成仏などとは到底及びもつかぬ事なり。
「端座して実相を思うべし」と、宣いしは此処の事なり。
我が身いくばくの真実捧げありや?
その真実にのみしか悟りの功徳は頂き得ざる事、
よくよく分別いたしみるべし。
人に捧ぐる真実こそ、神仏に捧げ奉る真心なり。
真心の極みに神おわしますをば片時も忘るべからず。
人を蔑む前に、
その姿こそ神仏より見下ろされたる我が心なりと悟るべし。
この深き反省より懴悔は生まれ、
改悔なしゆく心の清浄を得られゆくなり。
人を見る事己れの鏡なりとは当に此処なり。
人の悪をのみ見て悪しざまに罵るは、
己れの悪をかく罵らるると悟るべし。
正法行者とは常に己が一言一行に心を置きて、
ゆめゆめ相手を傷付けざる事こそ肝要なり。
例え過ちにもせよ、身に為したる行為、
又は心に思いたる悪念にいちいちに
反省の自覚なし、懴悔の行なし尽して神仏に一心に謝るべし。
ここにこそ真の行あり。
己が犯せし罪科に心付かずして、
知らず知らずに積もり積りて今日ありとしかと自覚いたして、
今後は一切の罪科犯さざるは勿論、
過ちて犯したる時は、ただちに懴悔、
改悔なして一つ一つを消滅なしゆく処に、
次第々々に清浄となりゆくものなり。
罪とも知らず、科とも気付かざりし過去の数々振り返りみて、
空恐ろしきばかりを悟り得て、始めて己れ許さるるなり。
正法行者よ、今世にこそしかと行じて、
必ず菩薩道達成いたすべし。
重ねて申さん、真実捧げた分だけが、
神仏より返さるる悟りの功徳なりと、しかと心に刻みおくべし。
合掌 |


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