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信仰とは必死に求めて、求めて止まない神仏への渇仰なのです。
求める心のない者に、どうして相手がわかるでしょうか。
まして目にも見えない御神仏の御心が、分る筈はありません。
必死に求める心とは、一切の私心を捨てて、
只一筋にすがり奉る事であります。
目にも見えず、御声も聞けない空ではありますが、
決して無ではない証拠に、一心に求めて止まない熱望には、
必ず答えて下さいます。
それは現実に現わされ、
自分の心にハッと気付かされるからであります。
一切の私心を捨てるとは、
こうすればこうなるなどと自分勝手な欲望を出さない事であります。
自分の欲望をかなえて下さるから、有難いのであって、
かなえられないから有難くないなどと、
得手勝手な我儘信仰では、真実の神や仏には通じません。
何故なれば、
神仏とは一切の業を洗い浄めて無垢清浄な心になる事だけを、
御喜びになり、又その様にしてやりたいと願って、
私共人間を導いて下さる御方なのでありますから、
人間の得手勝手な欲望を満たして下さる御方ではないのです。
私共の信仰の間違いは、此処にあるのです。
欲望とはつまり、自分の業の現われである事を悟らないから、
平気でいとも崇高な御神仏の御前にさらけ出して、
恥ずかしいとも思わない程、
人間とは余りにも低い心の持ち主なのであります。
例えば病気を治して下さいと祈る心は一心でも、
病気になった原因は、
自分自身の持っている業であると悟り得ないばかりに、
ただ病の苦しみから逃れたいばかりに必死ですがり祈って、
病気は治されても自分の持っている業はなくならない故、
その業のある限りまたしても病気は起るのであります。
恋愛におぼれて、何とかして相手を得ようと必死に祈り求めても、
その相手が自分の業、即ち悪因縁の現われであれば、
例えその恋が成就しても決して幸福にはなれません。
その他一切の事柄の、
どんなに自分の欲望を満たして欲しいと願って、
神や仏にすがっても、
自分の心を正さない限り決して本当の幸せは得られません。
この真理を悟らないから、人は迷信に走るのです。
それは目先の欲にのみ囚われて、
遠い未来にまで災いの種を残さない、
真の信仰を知らないからであります。
神仏とは常に私共に「心を正しなさい」と、
お教え下さっていられます。
その為にこそ、間違いを気付かせてやり度いと思し召されて、
それぞれの一人一人にその者の持っている業に応じて、
その一つ一つを色んな姿形で現わされて、
悟して下さっているのでありますから、
目前に現わされた現実をよくよく見極めて、
正しい判断の出来得る様、
自分を無にして御神仏の御心にすがり奉る事が、
真の信仰なのであります。
私心を捨てるとは、自分の欲を捨てる事あります。
一切の欲を捨て切って、
御神仏の御心にかない奉る自分となったとき、
すべての業、すなわち悪因縁から解き放たれて、
一切の不幸から逃れ得られるのであります。
人間の本当の幸せとは、神仏と一体となる事であります。
それは自分の心がご神仏の御心と同じように、
一切の悪を思わず、一切の悪から解き放たれ、
ただ善をのみ歓ぶ心となる事であります。
言い換えれば、すべての人の幸せを願い、
歓ぶ心の得られた時、
人は神仏と通じ合う幸せを悟り得られるのであります。
合掌 |


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