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人は今世に生まれ出で、いろいろの苦しみに逢う度に、
自分の過去の罪障を知らされているのだと認識出来得る事が、
正法の先ず第一の御功徳であります。
現世に生まれ出る度に諸々の罪科を積み重ねて、
罪とも知らずにそのまま因縁として霊界に持って逝き、
又その上に積み重ねては、
幾度も幾度も生まれ変わって来ているのであります。
それ等の過去を今ようように悟る事が出来ましたのは、
正法に巡り逢えたからなのでありまして、
この正法に逢い奉る事の出来ない内は、
自分の罪を悟る事も出来ませんし、
その罪を許して頂く方法等到底知る事も不可能な訳でありますので、
又しても今世に重ねた罪科を、
来世にまで持って逝かねばならない訳でありまして、
せっかく人間に生まれて来ても何の甲斐も無く、
又しても畜生道の様な哀れな処へ落ちてゆく訳であります。
人間として生まれさせられたという事は、
これから神や仏に成る事の出来得る大果報の姿を、
与えて頂いた事でありますので、
六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、娑婆、天界)を経めさ迷って、
いつの世に安楽浄土に往かせて頂けるのかも分らない、
遠い遠い過去世から今やっとその安楽浄土に往く道を、
教えて頂く正法に巡り逢えたのですから、
喜び勇んで一生懸命幸せになる道を修得してこそ、
今世に生きる大歓喜であります。
苦あれば楽ありとはこの事で、
いろいろの苦しみをなめて初めて、
この苦しみから救われ度いと願う心が湧き起り、
この苦しみは何処から来たのかと真剣に考える時、
「教えて下さい」と必死に祈る心が起り、
只々すがり奉るは神仏より他にないと、
悟る心を起して下さるのが守護神であります。
人間は一人々々に守護神が常に付添って、
守り導いていて下さるのですが、
自分勝手な我欲や我見で事を計る時は、
その守護神の御指図も御教えも耳に聞こえず、
振り向きもしませんので悪へ悪へと落ちて行き、
又しても悪業を重ね重ねて、
尚我身の罪科を、罪とも科とも思わない、
恥知らずのふてぶてしい者となり、
遂には、恥知らぬ畜生となってしまうのであります。
これでは人と生まれた生き甲斐はなく、
せっかくの人生を台無しにしてしまう事となるのであります。
この理を翻然と悟り得ました時、
初めて正法こそ真の救いだと知る事が出来るのであります。
そして人間が人間らしく目覚め得ると申す事は、
自分の罪を恥じ入る心が湧き出た時であります。
自分の悪を罪とも思わぬ、恥知らずであった己れの姿の醜さに、
深く々々反省の念が起きて来た時、
人は初めて、人として生きられる道が拓けて行くのであります。
此処で初めて娑婆の救い主でいられます観音様が、
諸々の罪障から許される道を御教え下さり、
守護神が必死でその道を行う勇気を与えて下さるのであります。
これが正法なのです。
生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで付添って下さって、
何とかして救ってやり度い、
成仏への道をたどらせてやり度いと、
必死で守っていて下さる御守護神が、その御尽力によって、
今ようように救い主であらせられる観世音菩薩様の御許にまで、
導いてきてくださったのですから、
この御縁を離しては、
再び許される日は容易に巡り来ないのであります。
この得難い御縁に巡り逢い、
尚その上に行じ難い正法を身得させて頂ける、
不思議なまでの御仏の果報を感謝出来なくて、
他に何の感謝があるのでしょうか。
人生は一瞬の間です。
瞬く間に過ぎてしまいます。
一分一秒を惜しむ心で、
先ず過去の罪障を許して頂く懴悔をこそ、
必死になさねばなりません。
その第一歩が先祖への孝養なのであります。
先祖に尽くす孝養は、我身の懴悔となるのでありまして、
その孝養の功徳こそ、過去の罪障を許されて、
幸せの扉の開けゆく事であります。
そして、先祖に対する菩提心を他人に対しても、
一人々々ささげ得る様になった時、
現世は浄土と変わるのであります。
それは、自分の積み重ねて来た罪障の許されて消滅した時、
自分の周りには誰一人として、
自分を苦しめる者のいなくなった現実を見る事が出来、
何一つとして不安も無く、恐怖も無く、
満ち足りた生活に人々からは崇め敬われ、
慕われる人生となっているのであります。
これが現世の浄土と申すもので、
現世を終ってからは、
そのまま霊界に御仏の御側でこの現状にあるのであります。
これが現世即身成仏と申す姿でありまして、
人と生まれた最高の功徳であります。
合掌 |


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