今月の法話
節分  ここでは当道場で観音様より賜りました
 お言葉を掲載致します。
 

 (2021年2月1日掲載)
神は生命なり

神仏を知るという事は、自分の命を確認する事であります。
例え一粒の種でもそれが芽生え、
成長して花を咲かせ実を成らせるという事は、
何と不可思議な大自然の威力である事でしょう。
生命とは、人間の知恵や力では考え及ばない偉大な力そのものであります。

何故なれば、それは何人も到底なしあたわない、
不可能な大威力によってのみ行なわれる処の、
大愛の賜であるからなのであります。

目にも見えない微小の原子が、胎内に宿る事、
それは到底人間業では出来ない事であります。
そして次第々々に大きくなり、
人の姿となり、月満ちて産まれ出る事の不思議さとは何でありましょうか。

それこそ考え及ぶ事の出来ない大きな愛と力であります。
そして教えられもしないのに、自然に乳を求め飲む事の不思議さ、
又その飲んだ乳が身の栄養となり、
大きく育っていく事の何と微妙な作用であります事か?
そして、日々に育つ我子への、考えられない大きな愛情の湧き出て来るのは、
何故でありましょうか?

何の気もなく不思議とも思わず、当然の事の様に体験しています。
日常茶飯事ではありますが、深く々々考えます時、
何とも言い様のない不思議ではないでしょうか。
これが皆、御神仏のおわします証拠であります。

目にも見えず、手にもふれる事は出来ませんが、
日々の私共の目先で育つ生命こそ、
神そのものの御働きなのであります。

神仏の存在なくして、
一粒の種も芽生える事は不可能な事なのです。
まして万物が成長し、それぞれの役目々々、
例えば植物は植物の役目、動物は動物の役目、
人間は人間の役目を果たしてゆく事は、
皆神仏の威大な御計らいあればこそであります。

私共人間は今日まで生かされる日々に、
微に入り細に渡って、
ひとつひとつに神仏の御陰によらない事は、
何ひとつとして無いのであります。

教えられもしないのに乳を飲む事、
何ら自分の意志なくして食物が血となり、
肉となっていく事、
湧き出づる感情の泉は何処から来るのでしょうか?

日常何の追究も無く行われているこれらのひとつひとつは、
考えれば考える程不思議ではないでしようか。
この不思議こそ、見えずして働き給う神仏の御力なのであります。

じっと目をつぶり深く々々ほりさげて考えてみます時、
日々を当然の事として、
何の感謝も報恩にも考え及ばない自分の、
何と恥ずかしい事とは思われませんか?
無い知恵をしぼる必要はないのです。

今日只今此処に生かされてある現実とは、
全く自分の力ではないのであります。
働く事も食べる事も人々に対する感情すらも、
皆裏からの御働きによるものであります。

自分の力と申すものは、
何ひとつとして無いと思ってもよいでしょう。
何故なれば、自分の力で生きているものなれば、
何で病気になどなるでしょう。

自分の意志で病気を求める人などある筈もない事です。
さればこそ人間とは、神仏にあやつられる、
あやつり人形であります。

御神仏の御心のままにその立場々々において、
役目々々を果たしてこそ、
この世に生きる身の価値でありますのに、
自分の本来の使命を忘れて身勝手に振る舞おうとする所に、
待ちかまえている悪魔のとりことなってしまうのであります。
そこに不幸が起きるのであります。

神仏に生かされ、神仏の御心のままに現世の役目を果たす者には、
神仏の御心そのままの生き方をするのでありますから、
神仏の御智慧と御力によって事を成すので、
何のさしさわりもなく平穏無事に、
幸せな人生の軌道を歩む事が出来るのであります。

自分の命は神仏のものであると深く悟り、
只御神仏の御心のままに生かされる自分と成る様、
精進努力する事が、真の信仰なのであります。

自分の無力も知らず、
我欲のままを突っ走ろうとして神仏にいくら祈っても、
それは正しい信仰ではないのですから、
一心になればなるほど悪霊のとりことなりやすいのであります。

せっかく神の大愛の御恵みにより、
人間界に生まれ出て来たのでありますから、
どうぞ神や仏の世界に生きられる様な信仰に励む事こそ、
真の幸福であります。

合掌


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