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神仏を知るという事は、自分の命を確認する事であります。
例え一粒の種でもそれが芽生え、
成長して花を咲かせ実を成らせるという事は、
何と不可思議な大自然の威力である事でしょう。
生命とは、人間の知恵や力では考え及ばない偉大な力そのものであります。
何故なれば、それは何人も到底なしあたわない、
不可能な大威力によってのみ行なわれる処の、
大愛の賜であるからなのであります。
目にも見えない微小の原子が、胎内に宿る事、
それは到底人間業では出来ない事であります。
そして次第々々に大きくなり、
人の姿となり、月満ちて産まれ出る事の不思議さとは何でありましょうか。
それこそ考え及ぶ事の出来ない大きな愛と力であります。
そして教えられもしないのに、自然に乳を求め飲む事の不思議さ、
又その飲んだ乳が身の栄養となり、
大きく育っていく事の何と微妙な作用であります事か?
そして、日々に育つ我子への、考えられない大きな愛情の湧き出て来るのは、
何故でありましょうか?
何の気もなく不思議とも思わず、当然の事の様に体験しています。
日常茶飯事ではありますが、深く々々考えます時、
何とも言い様のない不思議ではないでしょうか。
これが皆、御神仏のおわします証拠であります。
目にも見えず、手にもふれる事は出来ませんが、
日々の私共の目先で育つ生命こそ、
神そのものの御働きなのであります。
神仏の存在なくして、
一粒の種も芽生える事は不可能な事なのです。
まして万物が成長し、それぞれの役目々々、
例えば植物は植物の役目、動物は動物の役目、
人間は人間の役目を果たしてゆく事は、
皆神仏の威大な御計らいあればこそであります。
私共人間は今日まで生かされる日々に、
微に入り細に渡って、
ひとつひとつに神仏の御陰によらない事は、
何ひとつとして無いのであります。
教えられもしないのに乳を飲む事、
何ら自分の意志なくして食物が血となり、
肉となっていく事、
湧き出づる感情の泉は何処から来るのでしょうか?
日常何の追究も無く行われているこれらのひとつひとつは、
考えれば考える程不思議ではないでしようか。
この不思議こそ、見えずして働き給う神仏の御力なのであります。
じっと目をつぶり深く々々ほりさげて考えてみます時、
日々を当然の事として、
何の感謝も報恩にも考え及ばない自分の、
何と恥ずかしい事とは思われませんか?
無い知恵をしぼる必要はないのです。
今日只今此処に生かされてある現実とは、
全く自分の力ではないのであります。
働く事も食べる事も人々に対する感情すらも、
皆裏からの御働きによるものであります。
自分の力と申すものは、
何ひとつとして無いと思ってもよいでしょう。
何故なれば、自分の力で生きているものなれば、
何で病気になどなるでしょう。
自分の意志で病気を求める人などある筈もない事です。
さればこそ人間とは、神仏にあやつられる、
あやつり人形であります。
御神仏の御心のままにその立場々々において、
役目々々を果たしてこそ、
この世に生きる身の価値でありますのに、
自分の本来の使命を忘れて身勝手に振る舞おうとする所に、
待ちかまえている悪魔のとりことなってしまうのであります。
そこに不幸が起きるのであります。
神仏に生かされ、神仏の御心のままに現世の役目を果たす者には、
神仏の御心そのままの生き方をするのでありますから、
神仏の御智慧と御力によって事を成すので、
何のさしさわりもなく平穏無事に、
幸せな人生の軌道を歩む事が出来るのであります。
自分の命は神仏のものであると深く悟り、
只御神仏の御心のままに生かされる自分と成る様、
精進努力する事が、真の信仰なのであります。
自分の無力も知らず、
我欲のままを突っ走ろうとして神仏にいくら祈っても、
それは正しい信仰ではないのですから、
一心になればなるほど悪霊のとりことなりやすいのであります。
せっかく神の大愛の御恵みにより、
人間界に生まれ出て来たのでありますから、
どうぞ神や仏の世界に生きられる様な信仰に励む事こそ、
真の幸福であります。
合掌 |


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