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衆生己が我欲の為にブンブンと、
はえや蚊のうなるが如き雑音に悩まされ、
鎮魂の行、為し難し。
故に無量の神力流れ入るを、自らとどむなり。
「観世音浄聖は、苦悩、死厄に於て、能く為に依怙と作れり。
一切の功徳を具して、慈眼をもって衆生を視る。
福聚の海無量なり、是の故に頂禮すべし。」と、
み仏御自らに御諭し給わるものを、凡夫の浅知恵、
邪(よこしま)なる我見をもって、我が身の煩悩満たされざれば、
かえって観世音菩薩を疑うが如き愚を顧みず、
又しても暴法の罪重ねゆく浅間しさなり。
観音経よくよく読誦なし、身のすみずみにまで刻み付け、
片時なりとも離す事なく、「南無観世音大菩薩」と唱え奉らば、
観音妙智の無量の御諭しとうとうと流れ入り、
一切の苦厄より逃れ出ずべき道、明らかに示され給わるものにあり。
瞑想にしばしの時を一切の世俗より離れ得るは、
己が身の観世音菩薩の御慈悲の中に包まるる事となり、
ひいては一切の苦厄より解脱なし得る、
貴重なる時となるものにあり。
日々のわずかの時を、この貴重なる体験の為に用うるなれば、
「念々に疑いを生ずる事なかれ」と、
しかと釈尊の仰せ給わりし御言葉もあだにはならず。
衆生の一心に神仏を頼むは、
ただ我欲の満たされん事のみなるが故に、
信仰の道過まるものなり。
「我欲」とは即ち「煩悩苦罪」なりと悟り得る時、
無垢清浄なる神仏に、汚れし我欲をむき出しにさらけ出す、
己が醜くさ、浅間しさ、言わん方なき乱れなりと顧みて、
ただ一切を「御心のままになし給え」と祈る無我の祈りにこそ、
「真実の道」開かせ給わる信仰なりと頷かるるなり。
ここに初めて、観音妙智の無量の神力とうとうと、
我が身に流れ入るものにして、
現世一切の苦厄より逃れ得る事となるものにあり。
信仰の功徳とは、即ちこれなり。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と申す所以なり。
遠回りの如くに見えて、近道の功徳を頂く秘訣なり。
合掌 |
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