今月の法話
打ち出の小槌  ここでは当道場で観音様より賜りました
 お言葉を掲載致します。
 

 (2021年1月1日掲載)
正邪必然の因果応報

一心に仏を拝みつつ、その教えに背く行いをなす者、拝まずとも、
我が身で教えを実行なす者、いずれを真の信仰者と申すや?

仏とは経典の教えを、身で行う処に存在いたすものにして、
例え形は両手を合わせども、行いは経典に背く者の中には、
神仏は存在いたすどころか、悪魔の住家となるものにして、
如何に拝み、願うとも、神仏の御加護は無きものなり。

行い正しからざる者、正しからざる現実現わるるは必然の事にして、
悪強き時には正義は影をひそむものなり。
されど、正邪必然の因果応報の現わるるは、絶対なる天地の法則にあれば、
例え一時の悪運栄ゆとも、遂に必滅の時期来たらんは当然の報いにして、
絶対なる神仏の賞罰、現実に現わさるるところ、即ち現世なり。

悪運強きが故に、正者影をひそめばとて、そは永遠のものならず。
如何なる天魔たりとも、無量の神力の前には遂に降伏いたさるるものなり。

されば正者とは、形にとらわるる事なく、
身を以て正義を行うものにして、
心清からざれば、如何に形ばかりまことしやかに致さんとも、
清く正しき神仏の御心には通ぜざるなり。

故に偽りの現実、如実に現わさるるものなり。
されば己が身を謹みて、只ひたすらに神仏の御教えを実行いたす処にこそ、
正しき現実功徳となりて、現わさるるは必然の事なり。

重ねて申さん、信仰とは、身を以て神仏の御教えを実行いたす事にありて、
只両手を合わせて拝み、我欲を願う事には非ず。
心正しく、行い清ければ、願わずとも神仏加護され給うものなり。
神仏とは、正しき者には正しく、悪しき者には悪しき現実を現わし給いて、
その存在を厳然と現わし給うものなればなり。

真実(まこと)の正者となりてこそ、真に永遠の幸福を得らるるものなり。
これ成仏と申すなり。
人、仏と成らずして、永遠の幸福者とは申されぬなり。
形にとらわるる事なき心のまことをこそ、只一心に祈るべし。
祈りて正しき身の在り方を悟るべし。

合掌


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