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一心に仏を拝みつつ、その教えに背く行いをなす者、拝まずとも、
我が身で教えを実行なす者、いずれを真の信仰者と申すや?
仏とは経典の教えを、身で行う処に存在いたすものにして、
例え形は両手を合わせども、行いは経典に背く者の中には、
神仏は存在いたすどころか、悪魔の住家となるものにして、
如何に拝み、願うとも、神仏の御加護は無きものなり。
行い正しからざる者、正しからざる現実現わるるは必然の事にして、
悪強き時には正義は影をひそむものなり。
されど、正邪必然の因果応報の現わるるは、絶対なる天地の法則にあれば、
例え一時の悪運栄ゆとも、遂に必滅の時期来たらんは当然の報いにして、
絶対なる神仏の賞罰、現実に現わさるるところ、即ち現世なり。
悪運強きが故に、正者影をひそめばとて、そは永遠のものならず。
如何なる天魔たりとも、無量の神力の前には遂に降伏いたさるるものなり。
されば正者とは、形にとらわるる事なく、
身を以て正義を行うものにして、
心清からざれば、如何に形ばかりまことしやかに致さんとも、
清く正しき神仏の御心には通ぜざるなり。
故に偽りの現実、如実に現わさるるものなり。
されば己が身を謹みて、只ひたすらに神仏の御教えを実行いたす処にこそ、
正しき現実功徳となりて、現わさるるは必然の事なり。
重ねて申さん、信仰とは、身を以て神仏の御教えを実行いたす事にありて、
只両手を合わせて拝み、我欲を願う事には非ず。
心正しく、行い清ければ、願わずとも神仏加護され給うものなり。
神仏とは、正しき者には正しく、悪しき者には悪しき現実を現わし給いて、
その存在を厳然と現わし給うものなればなり。
真実(まこと)の正者となりてこそ、真に永遠の幸福を得らるるものなり。
これ成仏と申すなり。
人、仏と成らずして、永遠の幸福者とは申されぬなり。
形にとらわるる事なき心のまことをこそ、只一心に祈るべし。
祈りて正しき身の在り方を悟るべし。
合掌 |


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