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読経の功徳とは、自分の罪業許させ給えと祈る事であります。
夜毎に祈る読経の声は眠たい眼を目覚めさせ、疲れた体をいとわしめ、
夜更けても睡眠の時間を惜しむ心を鞭打って、
時を惜しまず祈る心こそ天に通じてうまずたゆまず努力するところに、
自分の罪業のかたい皮もようよう打ち破ってゆくものであります。
意味も分らず、ただ無心に一心こめて読経する功徳とは、
知らず知らずに犯した自分の罪業を知らず知らずに許されて、
いつの程にか固く縛られ、
身動きも出来ない因縁の殻が徐々に徐々にほどけてゆく事であります。
そしていつの日か「ハッ」と自分の作った罪とがとは、
これであったのだと気付かされるのであります。
人は自分がどのような罪業を作って、
今この様に苦しまなければいけないのかと言うことが中々に悟られないので、
ただ目先の困った事丈に囚われて「どうぞこれから逃れさせて下さい」とのみ祈るのですが、
本当は「この困った事柄は皆自分が作った自分の罪業から来ているのだ」と悟った時、
ただこの目先の困難を「早く助けて下さい」とのみ祈ってみたところで、
その原因を取除く事は出来ないのであります。
それは丁度、腐った物に蝿が集まるのを一時払ってみたところで、
又すぐに蝿がたかって来る様なもので、
腐った物を除けない限り蝿は、後から後から集まって来るようなものでありまして、
自分の作った自分の罪業は例え一時的に、御加持の様なもので解決してみたところで、
その原因である自分の罪業は許されていませんので、
又しても腐った物に蝿の寄って来るように罪の報いは現れて、
自分を苦しめるのであります。
そこに仏の諭しでありますところの御経の功徳にすがり奉り、
ただ一心に時を惜しまず読経し、写経し、教えのままに我が身を行じてゆくところに、
いつの程にか薄紙を剥ぐ様にほどけてゆく固い固い現状の艱難が、
解決されてゆくのであります。
これが本当の因縁浄化でありまして、
つまり自分の犯した罪業の少しずつ少しずつ許されている証拠であります。
そしていつの程にかその因縁のほどけた時「ああ!こんなにも深い罪を犯していたのだ」と、
しみじみ自分の心で悟る事が出来るのであります。
これは許されて悟る事の出来る智慧を授けられたからなのであります。
それ故に「どうしてこれから解決出来ないのか?」と悩んでいる内は、
まだまだ解決の智慧の授けて頂けるところの懺悔が出来ていない証拠なのでありますから、
一心に懺悔の為の読経し、写経し、又瞑想し、そして人に仕え、
仏に仕えて心の垢を洗い流す修行に打ち込まなければ、
自分の罪業は悟る事が出来ないのであります。
人は自分が罪を犯したが故にこの様な報いを受けているのだとは、中々に悟られませんので、
自分の罪は余所に置いてただ功徳のみ祈っている様な不義理を重ねて、
益々罪を深めているのに気付かない愚かな自分に気付くまでには、
いろんな苦しい目や、悲しい目や、辛い目に逢わなければ、
中々にその愚かさには目覚められないのであります。
それ故にこの身に受ける様々の苦しみは、
皆自分の犯した罪業に気付かせて下さる為の神仏の大きな愛の鞭であるのであります。
何とかして自分の罪業に気付かせてやり、一日も早くその罪から逃れさせて、
本当の安楽にさせてやりたいとの大きな御慈悲からの愛の鞭が、
我が身を責めているのであります。
その大きな愛に「ハッ」と、気が付く智慧は読経であり、写経であり、
瞑想の信仰の行から授かるものであります。
これが本当の悟りであって、
本当に悪因縁から逃れさせて頂く事の出来る功徳なのであります。
つまり御功徳とは悟りの智慧であります。
この悟りの智慧が全ての事を解決し、
一切の苦しみから逃れる事の出来る大きな力なのであります。
真の信仰とはこの智慧を頂く為の修行なのであります。
合掌 |


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