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因縁因果の理法をばしっかと胸に刻み込み、
深く頭脳にたたみ込んでおくなれば、
一々の事をなすに当たりて理の当然たるを悟り得て、
一瞬にして己が言動の未来に及ぼすを自覚いたす時、
躊躇致す心がまえありてこそ事過らざる己を作り得るなり。
天地の大法、自然の理念とは「蒔かぬ種は生えざる事」なり。
悠久の天地の在り方とは人智の及ばざる処なれども、
人智とはその大自然の中より生まれ出づるものにありて、
人間の自我によりて撹乱致すものなるを自覚なす時、
「己とは何ぞや?」即ち天地自然、悠久大義の中の一核にして
一個の別行動あるべきものには非ざるをしかと悟るべきなり。
これ即ち天地のかっこたる大法にして、己れ自らの自然のまま、
ありのままなる生き方なりと悟りて、自ら制すべきを制し、
なすべきをなしとげゆく処に己が力に非らざる力加わりて、
己れ個人と致して一瞬の間も生きらるるべきものには非ずと悟り得るなり。
自他一体なるゆえんここにありて、
「人も我も別個のものには非ず、人のなすは我のなすもの」にして、
我の在り方は人々に与うる影響多大なりと知りて見れば、
我が言動のゆゆしきを知るべきにあり。
かくしてこそ己がなしたる因の巡り巡りて己れに返り来る時、
理の当然たるを悟り得るものにあり。
因縁因果の理法とはここの事なり。
さればこそ自我強く己れの身中、はびこりて自業自縛なる自らの姿を省みる時、
「現在の在り方こそ因果の果なり」と、懺悔なす心状にこそ
救いの御手のさしのべらるる所以なり。
深く己れを省みて醜さに慟哭の涙する時、
人はその真の涙にて救わるるなり。
即ち因縁をほどく絆は真の涙そのものにありて、
一切の罪業を洗い清むる涙こそ、闇黒の中より一筋の光見出すが如く、
冷たき環境の中に温かき救いの御手のさしのべらるるを悟り得るなり。
これ正法への結縁なり。
合掌 |


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