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神仏に祈り奉ると申す事は、只義、第一に重んじて、
斜子の底に遜り、まず我が身願い奉る前に、
願い聞き届け頂くだけの義を尽くし有るや否やをよくよく考えて、
神仏に対して奉りて、お聞き届け頂くだけの代償を
捧げ奉る事が当然である。
例えば、商店に行きても一文も支払わずして、
品物を欲しいと頼んでみても、誰も聞いてはくれぬではないか。
又、もし後払いにて貸してもらっても、支払わなければ、
罪となりて罰せらるるが、人間界の道理なり。
人間界においてすらもかく厳然と戒めらるるに、
ましてや神仏に対して奉りて、遥かに遥かに下賎なる人間が、
この道理を弁えずして、なんじょう祈りの届くべきぞや。
しからば如何にして、己が祈願の代償と為すべきやは、
唯々御心に恭順致し奉る真心なり。
その真心の現われとは、命かけて一心に読経為すも良し、
人の心を導きて己が徳と為すも最高なり。
かくして、捧げ奉る真心に応じたる己が積徳の価値だけは、
祈願も聞き届けらるると申すものなり。
しかるを、人間の手前勝手なる無智が、
神仏とは何事でも頼めば適えて下さる等と解釈なして、
己が無徳を省みずして、厚かましく神仏を己が次元にまで引き摺り降ろして、
ねだる故にその卑しき無智の悪魔が忍び寄り、
いかにも神や仏らしく装いて、願い事を適え、
己が欲望の聞き届けられたる嬉しさに信じきる処に、
知らず知らず悪魔の手下となり、遂に己が無智と我欲が、
地獄へ地獄へと落ちてゆくものである。
故に信仰とはまず己が身を遜りて、徳無き己れが
斯様なる厚顔無恥の祈願するなど恐れ多き事なりと、
慎み慎みて、まず己が積徳に努むる事なり。
己れに徳有らば、願わずとも自然自然に徳に応じたるだけの福徳は、
備わりゆくものにありと、しかと悟るべきなり。
合掌 |


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