平成18年度法話
   ここでは当道場で観音様より賜りました
   お言葉を掲載致します。

   (H18.8/1掲載)
祈願の本質

神仏に祈り奉ると申す事は、只義、第一に重んじて、
斜子の底に遜り、まず我が身願い奉る前に、
願い聞き届け頂くだけの義を尽くし有るや否やをよくよく考えて、
神仏に対して奉りて、お聞き届け頂くだけの代償を
捧げ奉る事が当然である。

例えば、商店に行きても一文も支払わずして、
品物を欲しいと頼んでみても、誰も聞いてはくれぬではないか。

又、もし後払いにて貸してもらっても、支払わなければ、
罪となりて罰せらるるが、人間界の道理なり。

人間界においてすらもかく厳然と戒めらるるに、
ましてや神仏に対して奉りて、遥かに遥かに下賎なる人間が、
この道理を弁えずして、なんじょう祈りの届くべきぞや。

しからば如何にして、己が祈願の代償と為すべきやは、
唯々御心に恭順致し奉る真心なり。

その真心の現われとは、命かけて一心に読経為すも良し、
人の心を導きて己が徳と為すも最高なり。

かくして、捧げ奉る真心に応じたる己が積徳の価値だけは、
祈願も聞き届けらるると申すものなり。

しかるを、人間の手前勝手なる無智が、
神仏とは何事でも頼めば適えて下さる等と解釈なして、
己が無徳を省みずして、厚かましく神仏を己が次元にまで引き摺り降ろして、
ねだる故にその卑しき無智の悪魔が忍び寄り、

いかにも神や仏らしく装いて、願い事を適え、
己が欲望の聞き届けられたる嬉しさに信じきる処に、
知らず知らず悪魔の手下となり、遂に己が無智と我欲が、
地獄へ地獄へと落ちてゆくものである。

故に信仰とはまず己が身を遜りて、徳無き己れが
斯様なる厚顔無恥の祈願するなど恐れ多き事なりと、
慎み慎みて、まず己が積徳に努むる事なり。

己れに徳有らば、願わずとも自然自然に徳に応じたるだけの福徳は、
備わりゆくものにありと、しかと悟るべきなり。


 合掌


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