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他人の魂の目覚めの為に、真剣に祈り働く時、
人は始めて自分の魂の目覚めを悟り得る事が出来るのである。
自分の悪を悟りて改悔いたさぬ限り、
人には真の幸は開かれぬのである。
さればこそ自分の幸を願うなれば、
先づ他人の幸の為に祈り、導きの真実を尽くす事こそ、
自分の幸の扉を開く事である。
他人の不幸を見て、その根本は本人の心の歪みであると、
見抜き得る智慧こそ、己れの不幸の元を悟り得る佛智見なり。
何故かく心乱れて、禅定を悟り得ざるやと反省なす時、
先づ人の為に尽くすべし。
他人の為に、まして他人の魂の目覚めの為に、
真剣に心尽くして惜しまざる心こそ、
己れの佛心を呼び覚ます根本なり。
心尽くすとは、その人の為に、何物をも惜しまざる事なり。
己れを捨てて尽くし切る処に、己れを清浄となす
大いなる功徳現るるを、始めて悟り得るなり。
財宝は勿論、一切の物質を惜しみなく、
他人の為に捧げ得る心となりたる時、
人は宇宙の真理を身得なし得らるるなり。
即ち、無一物即無尽蔵なる現実の現るる所以なり。
己れ己れと己れの我欲のみに固まりては、
身も心も細りて次第次第に身に付きたる財も失われゆくものなり。
貧とは、心の貧しきが故の現実なり。
諸法実相とは、現世一切の物質界に現るる現実こそ、
己が心の真実なりと申す事なり。
心磨きて、魂の清浄を計る事こそ、愛を養う第一なり。
愛なくしては、他人の為に尽くして、
惜しまざる事の何たるをかは悟り得ざるなり。
愛こそは、大清浄の根本なり。
観世音大菩薩をお手本となす、
修行者といたしての根本の修行とはこれなり。
人は真の愛に満たされて始めて、一切の心の曇り明かに晴れて、
何の憂いも煩いも無き、大清浄の身となり得るものなり。
これ即ち仏なればなり。
合掌 |
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