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低級霊程、愛にうゆる者なり。
愛にうえたるが故に、がむしゃらに愛を求めて、
のら犬の如く餓鬼道の餓鬼の如くに、節度も礼儀も知らず、
知らざるを恥かしとも思わざる浅ましの形相と相成るものなり。
されば、人間の皮はかぶりたるも、
中身は畜生同様にて人並みの心得なき有様をも、
あえてがえんじざる状態となるものにあり。
さればこそ、人の姿したる畜類のあり方、
尚更に哀れみてこそ神や仏なり。
人並のものを導きやらんは、並の情なり。
人並ならざる人非人をば、不憫と思いて救いやらねばと、
憐憫の情起こすが故に仏心なり。
この人のいみ嫌い、嘲笑い、さげずみて、
人並に扱いやれざる人非人を救わんが為に仏道ありと悟りてみれば、
非人こそ修行の材料なりとしかと人並に育てやるべし。
先祖供養とは、現世における子孫の積徳なり。
これら畜生にも等しき者の肉体は離れたるとも、
その心は変わらず。
それ故に、先祖の成仏を願いて、法要いたす事は、
子孫の先祖への孝の第一なるも現世に於いて成仏の道
知らざりし人々の幽界に入りては、現世より送らるる読経に
悟りの開かるる筈はなし。
しかるを現世に於いて、何の悟りも修得なさざりし者が
幽界に入りては、僧の読経にて成仏なし得るなどと、
子孫が身勝手なる自己満足の法要に於いて孝を尽くしたりなどと
思うは誤りなり。
先祖を思う真心の法要とは、積徳の僧の読経は勿論なれども、
その僧の菩提心に対しては、子孫の心厚き感謝を以て布施の真を捧げ、
他の人々に対しても、出来得る限り先祖の菩提の為に布教致して、
子孫が人々を喜ばしめる徳を積む事によって、
その徳は仏の慈悲によりて先祖の徳とならしめられて
先祖の業も消滅いたされ、成仏への道開かるる事となるものにあり。
されば、法要に於いては第一に、現世の子孫が先祖の為に
徳を積む事こそ、肝要にして、只申し訳に読経いたさばとて、
到底悟りなき先祖の魂に光そそがるる筈なしと、よくよく分別いたし、
真に先祖を思う菩提心あらば先ず、
仏を供養し、僧を供養し、しかして衆生を供養する徳を以て
先祖の罪業消滅をはかるるべきなり。
合掌 |


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