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苦しみとは自分で作った自分の業に
振りまわされている事なのです。
それ故に、苦しみの根本は皆自分自心にあるわけです。
その根本をしっかと悟れば、自ら抜け出す方法も分って来る訳でありまして、
その為の智慧を授けて頂く事が即ち信仰なのです。
神仏の御智慧を頂いて、苦しみの本を悟り、
自分の非を悔い改めてゆく事が修行であり、
幸へとつながる道でもある訳であります。
自分の苦しみは決して他人の為ではなく、
皆自分の蒔いた種が芽生えたものであるとの真理を
しっかと分らせて頂く時、恨むべき人は何処にも居りません。
憎むべき人こそ、自分のお詫びしなければならない人だったのです。
悔いても悔いても尚悔やみ切れない程の自分の罪障を思う時、
詫びても詫びても詫び切れない懺悔と悔恨の念に責められる心地となって、
只一心に御仏の御慈悲にすがり奉って、
身も心もささげ尽くす覚悟で神仏に仕え、
人に仕えての下座の行を積んでゆく時、
知らず知らずに苦しみは薄らぎ、いつの間にか心の安らぎを得て、
周囲の人々から敬われ、慕われ大切に思われる人生が開けゆくのであります。
真の幸福とは人の感謝を受け、
人の歓びを歓びとする人生にこそ開けゆくものであります。
万人と共に生きる世界に、自分一人の幸はないのです。
万人と共に此の世の極楽浄土を築いてゆく処に、
人生の真の意義があり、御仏の御慈悲に包まれ、
大愛の神在しますをしみじみと身にも心にも感じとれるのであります。
合掌 |


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