平成17年度法話
  ここでは当道場で観音様より賜りました
  お言葉を掲載致します。

  (H17.11/1掲載)
言葉は方便なり

言葉とは、意思を表現する方便に過ぎず。
されば言葉にて表現なさざれば、
相手の意思が通ぜざるは、
今だ心の交いはなきものにあり。

さればこそ、言葉の響きに迷わされ、
偽りとも分らぬままにだまされて、
失意の人となることもあり。

口先にてもろもろの罪障を作るも亦、
人の世の常なり。


耳に聞かざれば相手の心分らざる愚かさ故に、
様々なる罪とがを作らしめ、
己も亦不遇に泣く事ともなるものにあり。

五感に頼りて、本質たる霊魂の在り方をないがしろにいたす結果が、
もろもろの悪因縁を作りゆくなり。

五感とは、霊魂を磨く為の一の方便に過ぎざるを
真実なりと思いあやまるが故に、
物質界における文明も文化も亦、悪に悪にと用いられ、
人間は自ら作りて自らを落とし入れつつあるを尚、
悟り得ざるが故に、遂に形とは無なりと悟らるる結果となるなり。

子を失い、家を失い、財を失い、己れ自身をすらも失いて尚、
中宇に迷うは皆これなり。
全て愛がなきが故の結果なり。

大愛に生かされて、愛を知らざるは、
さながら赤子の母に育まるる中にその恩愛を知らざるが如くにして、
我子の愛故に親はさまざまに心くだきて、
その大成を願うものなり。

これ、神仏の愛と等しく、むくわるる事なくして何の悔いも無く、
只与うる事の喜びを以て、至上の幸となすものにあり。
親の尊きはここにこそあり。

神仏の尊きも亦同じなれども、
その愛に於いて全て万物を以て、
我子と遊ばさるる無限愛なり。

人間現世に在りて、子を頂き、家を頂き、財を頂き、
食を与えられたるは全てこれ、
神仏と等しき大愛に目覚めさせんが為のものにのみありて、
己れの我欲を満たさんが為のものには非ず。

さればこそ、狂うが如くに我子を欲しがり、金を欲しがり、
さまざまの物質を欲しがるは皆これ、
己が欲望の為のみなればこそ、与え給わらずはむしろ、
神仏の己れを戒めらるるの大愛故なりと悟り得ざれば、
得ればとて、何の価値もなきものとなるなり。

愛しと思いて心くだき、身をすりへらして育めばとて、
成人なして捨てらるる親もあり。

一心不乱に働きて財を得らればとて、
一滴の水も飲めずして、一文も持てず、
あの世につれさらるるものもあり。

これ全て我欲の果ての神も仏も知らざる心の
無知蒙昧をさとされたるものにあり。

形あるものに囚われて、真実を見つめる事のなしあたわざるは、
いかに空しき事なるかを、さまざまなる因縁に現されて
悟され給わる大愛に、一時も早く目覚め得ざれば
生くる甲斐なし。

目覚めて見れば我大宝の中に在りて、
心のままなる自由自在に無礙弁才の存在なりと
悟り得るなり。

 合掌


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